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《2008.3.11.よりの投稿》


・事務局様へ
 NHKクローズアップ現代を見ていて、阪神大震災時、小松左京さんが、倒れないはずの高速道路が何故倒れたのかを訪ねたところ、研究者の方から「想定外であるから、自分達に責任はない。」との返答を聞いて、驚き、とても心を痛められたと、ご友人の作家の方が語られる場面がありました。
 私は、子供の頃、小松左京さんの小説にでくるような人こそが「科学者」「研究者」とイメージしていました。
 それは、例えば、日本沈没にでてくる田所博士のように、自分の命までを徒して、「自分予測する所の災いから起こるだろう事から人々を救おう」というような、頼もしくも頼れる、これぞ専門家!!というような人間像が、科学者だと思っておりました。
 日本沈没は、自分の予測に情熱を持ち、それに基づいた科学者の崇高な感情が素晴らしく描かれていましたが、子供の私は、ある意味、科学者はそういうものと思っていた所がありましたので、人間に大変なことが起きても、科学者の人が、そのいい頭を使って、「できるかぎりのこと」は、頑張ってくれていると思っていました。
 ところが、大人になる過程で、色々な事象をみるにつけ、今回の原発問題もそうですが、幼稚な表現申し訳ないですが、「科学者は正義の味方じゃない?!」とがっかりしていたところです。
 
 小松左京さんの作品の中にでてくる人間像と、「自分の責任じゃない」という研究者の姿は、あまりに違い、小松左京さんが研究者の返答にがっかりして当然と思いました。
 一緒に憤ってあげたかったなーと思いましたが、又、同時に、がっかりしたりしないでもよかったのにとも思いました。
 あのような、先見の明に満ちた小説を書ける方は、傑出している人間だけに、同じ大きさの人に会うのは難しく、きっと、それで傷ついた事と思いますが、小松左京さんという人間 が一人いるのだ、ということが喜ばしく、そんながっかりは帳消しにできたことと思いますが、もう、この世の中におられないと思うと、とても残念です。
 又、買って読もうと思いました。
 2011.11.24 一読者

・事務局様へ

 小松先生の突然の訃報に触れて、不意打ちを食らったような思いがしましたが、今はただ、先生の作品から様々な形で触発されてきた者のひとりとして、心から敬意を表します。
 小松先生について様々な人が各様のコメントを出されていますが、いずれも帯に短しタスキに長しの観があり、小松先生の全貌に触れ得たものはなかったように思えます。
 そうした追悼文を読みながらはじめは物足りない思いに駆られましたが、そのうちに――あるいは不遜、不謹慎な感慨になるかもしれませんが――小松左京の全体像に触れたコメントが見当たらないということ自体が、小松左京という突出した存在の巨大さを示しているのだ、という気がしてきました。
 小松先生が、東日本大震災から旬日を経ない時期に亡くなったことに、ひときわ感慨を抱く人も多いようです。追悼のコメントにも、東日本大震災に引き寄せて、代表作である『日本沈没』に触れたものが少なくありませんでした。その気持ちは私にもよく分かります。
 ただ、小松ファンのひとりとしてとても不満を覚えるのは、どうも、小松左京の『日本沈没』ではなくて、『日本沈没』の小松左京という文脈で語られている印象が強いことです。
 『日本沈没』が小松先生の代表作であることは言うまでもありませんが、小松先生は、『日本沈没』で展開した世界よりも、はるかに広大な世界の持ち主でもありました。その視点がどこかに置き去りにされているようで、ちょっと寂しい気持ちがします。

 いささかムキになって、小松左京は、『日本沈没』だけの小松左京ではない!――
と、声を大にして言いたい気分が私にはあります。

 そんな思いがじわじわと大きくなり、この数日、小松左京という人物の事跡を言い表す言葉はないものだろうかと、ぼんやりと思案していたのですが、ふと書棚の本(元国連事務総長の回想録)のタイトルが目に入ってきました。

 ――『世界で最も厄介な仕事』

 “厄介”という言葉に引っ掛かる人もいるかもしれませんが、「小松左京は、世界で最も厄介な仕事に取り組んだ男だった」というのは、見立てとしてまんざらでもないと思えてきました。
 小松左京は、時にまだ若い民族である日本人の未来を案じ、時に生き物としての地球と対峙し、時に歴史がひとつだけである必然などないではないかと歴史に挑み、人類の存在意義を問い、生命の存在意義を問い、宇宙の存在意義を問うことまでもしました。
 これほどまでに厄介な仕事に取り組み続けた人物がほかにいたでしょうか?
 しかも、日本人を思い、地球を思い、生命を思い、宇宙を思い続けたこの人物は、日本人の、地球の、生命の、宇宙の存在意義をぎりぎりまで問いつめるためには、日本列島を滅ぼし(『日本沈没』)、生命を滅ぼし(『復活の日』)、宇宙を滅ぼす(『眠りと旅と夢』)ことさえも敢えて辞すことはありませんでした。

 そういう意味では、これほどまでに好き放題やった人物もいなかったでしょう。
 実際、小松作品のあれこれを思い浮かべてみると、日本が沈み、宇宙人が攻めてきて、物体Oが落っこちてきて、ポックリ病が猖獗を極め、巨大な糞が日本列島にのしかかり、アパッチ族が襲来し、終いには、この宇宙を“創造”していた〈第三の猿〉という人物が死んでしまったために、この宇宙そのものも消滅してしまい…私は――私たちは――何度、先生に殺されたか知れたものではありません。
 しかし、そうやって世界を何度も滅ぼしたこの人物は、ニヒリズムの類とは無縁な、ちょっと比類のしようがないほどに過剰な感情量の持ち主でもありました。
 これまで私は、博覧強記を地でいくような小松先生の知識量に圧倒され続けてきましたが、今では、沸騰せんばかりに充溢しているその多情さにたじろがんばかりに圧倒されています。
 それはたとえば、『日本沈没』終幕部での田所博士と渡老人の間で交わされる、日本民族の未来に向けての対話であり、『復活の日』の中のヘルシンキ大学教授がもはや聞く者も存在しないラジオで語る人類文明への熱い思いといったものに凝縮されて表現されています。
 今、改めてそうした田所博士やスミルノフ教授の言葉――実は小松先生本人の言葉――を読み返しながら、つくづくとこう思わない訳にはいきません。

 これほどまでに感情量の過剰な人物がいただろうか。

 そんなことを考えていると、先生の短篇『地球になった男』のことがしきりに思い出されてきます。
 はじめて読んだ時は、カフカの『変身』をモチーフにして、あちらのザムザは虫になったけれども、こちらの方では主人公は地球にまでなってしまう、という仕掛けにクスリと笑みを浮かべた覚えがありますが、今になって思うと、あの作品はまさしく小松先生本人の独白のようなものだったのではないでしょうか。
 日本を沈め、人類を滅ぼし、宇宙を消滅させてしまった小松先生は、あの小説の主人公のような感情に揺さぶられたことが、実際にあったのではなかったろうか。
 そんな小松先生のことですから、今ごろ、「小説の中でのこととはいえ、さんざんいじくったりして、君にはすまないことをしたなぁ」と、この宇宙に恐縮しながら、その罪滅ぼしにどこかでもうひとつの宇宙になっているかもしれません――もっとも、小松先生が宇宙になったら、さぞかし何でもありの疾風怒濤の宇宙になりそうな気もしますが…。
 何かもっともっと言いたいことがあるような気がしますが、ますます論旨が混乱するばかりでしょうから、ここまでにします。妄言多謝。
   2011.8.4 沖縄県 増田宙

・増田宙さま

 梅棹忠夫さんから小松左京のことを思い出して下さって、ありがとうございます。
 小松左京が梅棹忠夫さんと巡り会えたことは、大変幸せなことだったと思います。他にも関西の学者のかたがたは、今西錦司さんや西堀栄三郎さんなど、桁外れの方が多いですが、梅棹さんのように「文明」を語り合える先輩と出会ったことは、本当にSF作家としては幸せなことでした。実際に、梅棹さんのアーカイブスを調べると、対談相手としては小松左京が一番多いのだそうです。小松が30代、十歳年上の梅棹さんは40代。二人とも一番頭も身体も元気な時からのおつきあいで、梅棹さんとっても学者とは違う世界のSF作家とは、気楽に話が出来たのかもしれません。二人の対談だけを探して読むことは、簡単ではありませんが、『地球を考える』2(新潮社1970)で「『脱文化』文明は可能か」という対談をしています。
 今回の東日本大震災は、まさに新たな文明のあり方が問われていると思いますが、小松左京が元気で梅棹さんと対談をしていたらどんな文明論が論じられるのだろうか、と想像しながらも、現代の若手論客に期待する以外ないですね。
 2011.7.5. 事務局

・ 事務局様へ

 先日、NHKで放送されたETV特集「暗黒のかなたの光明―文明学者梅棹忠夫がみた未来」を興味深く見ていました。
 いうまでもなく、その番組の主役は梅棹忠夫氏なのですが、私には、梅棹氏と並んで小松先生の姿が二重写しになっているように思えてなりませんでした。

 東日本大震災という予期せぬ事態を受けて急遽、取材・構成されたという事情もあり、番組の内容には、掘り下げが足りないと思えるところもいくらかありました。しかし、梅棹忠夫という文明学者の眼を借りて、今回の震災をいわば「文明論的」な視点から捉えなおそうという制作者の問題意識は、とても貴重なものだと感じました。

 震災後、さまざまな立場からさまざまな指摘・問題提起がなされています。政治、経済、危機管理体制の問題など、そうした指摘のいちいちにはもっともなものが少なくありません。

 しかし、福島第1原発の事故が象徴しているように、今回の震災によって私たちが突きつけられた問題は、各論的な対症療法でことたれりとすることができないものばかりです。漠然とではありますが、もっと包括的な視点が必要なのではないか、それこそ文明論レベルでの議論が必要なのではないか、と感じていました。

 残念ながら、いまだに今回の震災を文明論のレベルで捉えた言説は出ていません。それだけになお一層、梅棹忠夫という人物の巨大さに印象づけられました。

 梅棹忠夫という人物についてもっと知りたいと思い、氏の著書などを手に取り始めたのですが、いろいろと読んでいる中でもっとも強烈な印象を受けたのが、『梅棹忠夫 地球時代の知の巨人』(河出書房)に掲載されている小松先生の一文(「SFの大先輩のような人」)です。 

 そこで小松先生はこう書かれています。

梅棹さんとは、(略)たびたびお会いして、「何で地球に生命が発生したのか」とか、「地球が四六億年前に出来て、生命が発生し、人類にまで進化したのはなぜか」といった問題を、議論していた。梅棹さんの地球人類学、地球生態学はSFに近く、天体学や、火星に生命がいるか、というSF的な話にもつながるものだった。しかし、SFの仲間とは、案外こういう議論をしないもので、梅棹さんと大まじめで話していたこういった会話が、私のSF作品のバックボーンとして大いに参考になったことは、間違いない。

  私にとっては梅棹さんは、SFの大先輩のような人であった。

 小松先生はさりげなく書かれていますが、この一文を読んで、私は田所博士のことを思い出さずにはいられませんでした。
 梅棹氏は、およそ田所博士のような野人肌の人ではなかったようですが、べらぼうに大きな世界把握の視野の持ち主という点でふたりは実によく似ています。ひとり合点が過ぎるかもしれませんが、小松先生の文章を読みながら、梅棹忠夫は田所博士のモデルの一人だったに違いない、と思えてなりませんでした。

 ある場面で、田所博士は小野寺と幸長助教授を相手にこんなことを語っています。

「わしにいわせれば―人間も植物も珊瑚も、みんな同じようなものだな。とにかく突起があれば、それにまといつく。原始生命だって、おそらくただ単に、漫然と水中でできあがったわけじゃなくて、分子的尺度の粗面の上に、高分子コロイドがひっかかり、定着することによって、はじめて複雑なタンパク分子ができあがっていったにちがいない」
「君はどう思うかね? 炭酸カルシウムを定着させて、共同骨格をつくるという点で、造礁珊瑚と、コンクリートの近代都市をつくる人間と、どれほどちがうか?」

 そのほとんど飛躍といってもいいような、しかし、ひどく壮大な田所博士の世界観に面食らう思いがしたことを覚えています。

 小松先生が一文を寄せられた同じ本の中で、科学ジャーナリストの中野不二男氏が、十年ほど前の梅棹氏との会話を紹介しています。

「中野さん、最近は技術の話をよう書いてますねぇ、宇宙の技術とかを…」
「はい、日本は宇宙開発を積極的に進めるべきだと思いまして…」
「そうそう、そうですわ。これからの冒険は、宇宙ですわ」

 中野氏は、梅棹氏の口から「宇宙」が出てきたことに驚いたそうですが、「しかし『文明の生態史観』のスケールと、先生がこれまでとおってきた探検と冒険の道筋を思い出せば、不思議ではなかった」と書き添えています。

 無造作にこういう言葉がポンと出てくる梅棹氏であれば、造礁珊瑚も、コンクリートで都市をつくる人間も、いってみれば違いなんてないじゃないか、というぐらいのことは澄まし顔で口にしそうな気がします。やはり、梅棹氏は田所博士のモデルではないでしょうか。

 もしも機会があれば、小松先生と「SFの大先輩」梅棹氏との知的交流について、お二人の間で交わされた対話について、また、梅棹氏ならば、今回の震災をつうじてどんな問題提起をしただろうか、小松先生からじっくりとお話を聞いてみたいものです。
 2011.7.4  沖縄県 増田宙


・事務局様へ

今回の震災において小松先生がなぜ沈黙なさっているのか分かりませんでした。しかし、事務局様の文章を拝読してその理由が分かったような気がしました。でも私はあの阪神大震災を経験された小松先生だからこそ、今回の震災についてどう感じておられるかを伺いたい思います。いづれ時期を見て是非とも東日本大震災復興に向けたお話をお聞かせください。今はまだ宮城県の物流が回復しておらず入手困難ですが、『小松左京の大震災‘95』を是非読んでみたいと思います。

今回の震災で感じたことを少し述べたいと思います。

1995年、あの阪神大震災が起きた時、様々な報道で現地の惨状を知ることができましたが、正直これが自分が住む日本での出来事であるとの認識がなかなか持てませんでした。今回、自分が被災者の身になってようやく阪神大震災の状況・被災者の方々の気持ちが分かりました。自分の身近に確かに存在していた多くの命が、町が村が一瞬にして無くなってしまった。今更ながらです。想像力、共感力の欠如と言わざるをえません。想像力・共感力、科学文明の発達とともに人間という種が失ってしまった能力なのでしょうか。首都圏での物資買いだめや、原発事故に対して被害者然を決め込む東京の人々の様子を見るにつけ、その思いを一層強くします。

一方でこれを契機として、災害との共存・エネルギー問題・国家間の問題など地球規模の問題に対処するために、人間が失った他人への想像力・共感力を取り戻し、人間がその進化の軌道修正をするべきターニングポイントに来ているのではないかとの思いがあります。

「我々が新しい文明の先駆けとなるのだ。全世界が目指すべき文明を作るのだ。」

亡くなっていった膨大な数の命に対して、我々残された者が負うべき課題ではないかと思います。
   2011.4.15 仙台市 伊藤

・福本さま
 今回の地震は、阪神大震災を上回る規模の大災害で、それは感じても、マスコミは口には出来ないシリアスな現実があると思います。
 阪神大震災の時には、阪神淡路という局地的なしかも都市部での災害でした。小松も老骨に鞭打ちながらも、自分の口で「日本沈没」を書いた作家として発言することも出来ました。しかし、今度は東日本という広範囲に及ぶ災害でしかも原子力発電の危険によって日本国民としての責任にも直面しています。「日本沈没」という作品を思い出した方は、もう一度読み直して、日本国、日本人としてどのような振る舞いをしたらよいのか考える参考にしていただければ、幸いです。
 幸いにも事務所は無事でしたが、大地震の恐怖は体感しました。多くの方々の命が一瞬にして失われてしまったことの衝撃で打ちのめされると同時に、このような自然災害の多い日本列島に一万年以上前から人間が行き続けてきたのだという事実にも、あらためて感慨を深くしました。やはり何とか生きていかなければいけないのです。小松左京は災厄を予言しようとして「日本沈没」を書いたわけではありません。日本という国の足元をしっかりと見つめて、現実を正しく捉え、生き抜いていくことの重要さを伝えたかったのだと思います。ですから、今回の大きな地震によって多くの地域が破壊されても、けして日本が沈没するのではなくて、沈没しないように全力を出して努力することが大切だと思います。実際に、「この土地で頑張るよ。もういちど街を作り直すよ」と力強く語る被災者の老人の声を聞いて、こういう方がいらっしゃる限り、日本は大丈夫だ、と思いました。そういう地元の復興へのエネルギーを助けるよう、国を挙げて動いていく必要があるのでしょう。なぜなら、それは一部地域のことではなくて、日本国全体の復興に繋がることだからです。
  2011.3.22 事務局

・「日本沈没」がはじまった。
地震発生後一夜明けて、テレビ報道(とくに原発事故)を視ながら、まずそう感じました。
マスコミがいつ小松予言に注目、いや番組発表するか。
どなたかコッソリ耳打ちくださいませんか。
 2011.3.19 福本 昌弘 

・昔からのフアンで、長編も好きですが、「安置所の碁打」等の短編も大好きです。
今回お願いしたいのは、「虚無回廊」の続編です。・・・・・ずーっと待ち続けています。
ぜひ宜しくお願い致します。
 最後に先生のご健康と益々のご活躍をお祈りいたします。

 2008.9.30 小荒井

・藤本様
ランドスケープオペラ「ガイア」について覚えていて下さって、ありがとうございます。
確かにあの時の映像はフルハイビジョンで記録しました。しかしテレビではNHKやテレビ朝日などのニュースや花博特番の中で報道された程度で、全部を通しては放送されておりません。ビデオパッケージとして販売することも考えられたのですが、ライブ録音なので、音楽の著作権問題などがあり、実現しませんでした。しかも当時のハイビジョン様式は現在の機材では再生不可能になってしまい、花博のときの映像記録は、ほとんど見られなくなってしまったのです。しかし、VHSにダビングしたものが残っておりますので、いつか多くの方に見ていただける機会を持ちたいという思いは持っております。

 2008.5.30 事務局

・初めてメールをさせていただきます。
こんな事で御社にメールするのもいかがなものかと思いつつ何もしないよりはと思い、メールさせていただきます。

私がまだ20代の頃、思い出と共に強烈に残っている舞台がありました。
1990年の国際花の博覧会で行われたランドスケープオペラ「ガイア」です。
あの時は丁度、いのちの塔を背に、池が割れる所を正面に真ん中に座って舞台を見させていただきました。
その時カメラが回っているのも解っていたので、これはきっとTVで放送されると楽しみにしていました。
放送されたのかもしれませんが、結局見れずいつの間にか17年もの歳月が経ってしまいました。

今日、インターネットで何か情報があるかと探していたところ、御社にたどり着き「イオの歴史」のページで

『5月花博会場においてランドスケープオペラ「ガイア」製作・総指揮ハイビジョンにて収録』

との文字を見つけ、思わずメールさせていただきました。

この収録された映像と言うのは、商品化されていたのでしょうか?
また、今後何らかの形で世に出るのでしょうか?

私事で大変恐縮なのですが、この映像を一度でいいので見てみたいのですが、そのような事は可能なのでしょうか?
著作権の関係などで、見る事は不可能とは理解しつつ、一応メールさせていただきました。
もし、万が一何らかの方法があればと思い‥

お忙しいところ、申し訳ありません。
もし、見ることが出来なくても、たった2日間のランドスケープオペラ「ガイア」でしたが17年経った今でもいい思い出として残っています。
最後に、本当にあのステージは感動しました。
ありがとうございます。

 2008.5.29 藤本


・小賀坂様
「新都市建設」は、『ある生き物の記録』集英社文庫(1977年第1刷)にも収録されています。
小松氏のショート・ショートでは、私の中でベスト3に入る好きな作品の一つです。
ちなみにベスト1は「再建」です。こちらは『一生に一度の月』集英社文庫(1979年第1刷)に収録されています。小賀坂様がお探しの「新都市建設」とテーマが似ていますがこちらは更にスケールアップしてテーマが取り扱われています。是非お読みください。

話は変わりますが、当サイトの〔臥猪庵hic〕で小松氏が書いておられますが、アーサー・C・クラーク氏が亡くなりました。
私の海外SF体験としては主として、アシモフ氏の「ファウンデーション」・「ロボット」シリーズ、クラーク氏の代表作『幼年期の終り』『太陽からの風』『天の向こう側』等を一通り読んでおりました。
中でも学生時代に読んだ『幼年期の終り』には衝撃を受けました。後に読んだ小松氏の『果しなき流れの果に』は、この『幼年期の終り』が影響していると私は推察しています。

最近の日本SFは元気がなく、海外SFのJ・P・ホーガンなどを専ら読んでいましたが、つい先日、古本屋でクラーク氏の代表作の内唯一未読であった『宇宙のランデブー』を入手し、嬉々としていた所、数日後に新聞でクラーク氏の訃報に接し、呆然としました。
世の中は何か目に見えない無数の糸のようなもので個人個人が繋がっているような気がしてなりません。

クラーク氏のご冥福をお祈りします。
  2008.3.25 仙台の伊藤

・ 小賀坂様
おたずねの作品は「新都市建設」(1965)ですね。
ハルキ文庫の『月よ、さらば』に入っています。新潮文庫の 『アダムの裔』にも確認されており、これは中古書サイトで 入手できるようです。
 2008.3.12 小松左京研究会

・はじめまして。
小松左京氏の作品について探しものをしている者です。
どこにあたればいいのかわからず、たまたまこの欄に行きつきました。

SFショートショートファンの私が20年位前、文庫本で読んだ作品なのですが、大変ショックを受け、友人にも読んでもらいたいと貸しましたが、そのまま行方知れずになっております。
ぜひ今一度読んでみたいと思うのですが、タイトルも出版社もわかりません。どなたかご協力いただけたら幸いです。
筋は以下のようなことだったと記憶しております。

森や林の木々が伐採され、のどかだった地方の村が開発されていく。
風景が壊れていく、と嘆く老人。
一見現代の商業主義地域開発の風刺かと読み手に思わせておいて、
実は奈良の都の建設の始まりだった、というオチです。(たぶん)

数ページながらものすごくインパクトの強い作品でした。
景観の保全と地域開発について一考を投げかけられているように感じました。
ああ、これは! とお気づきの方、どうぞご一報ください。
お願いいたします。

   2008.3.11 岩手県 小賀坂