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《2002.1.5から2002.12.12の投稿》
★ 中学生の頃からずっとずっと小松左京作品のファンでした。「果てしなき流れの・・」などのハードSFから女シリーズ、歴史もの、文明評論まですべて好きです。
安倍清明ブームなども、はるか前に小松先生が「遷都」で見事に清明像を描き出していることを思うと、君達いまごろ何言ってんのなんて言いたいくらいです。
こんな私も年のせいでしょうか、フィクション(特にSF)から急速に遠のいてきているような気がします。
かつては正月休みなど、新しく出た小松SFを買いこんで、それこそ舐めるように読みふけったものでしたのに。
そういえば「虚無回廊」T,Uを買って読んだのが最後だったような気がします。
同作品のあまりの広大無辺の展開に、この先大丈夫だろうかと、一種の危惧さえ抱いたものでしたが、同作品が中断していて、多くのファンが再開を熱望しているのを、今ごろになって本読者の声で初めて知ったという体たらくぶりです。
実は書店に行って、本棚に小松作品が極端に少なくなっていることも最近気付いたところです。
これはいったいどうしたことなのか。何かSFの別世界に迷い込んでしまったような気さえしています。
小松先生。「虚無回廊」の続編は、充分に時間をかけイメージを発酵させて出していただくとして、その前に絢爛豪華な王朝時代を舞台に、ねっとりと艶やかな女性を登場させるようなちょっと不思議な大人の物語なぞを書いてもらえないものでしょうか。あるいは江戸を舞台に粋な年増が・・・なんてのでもけっこうです。
心のコマケン会員からのお願いであります。
小長谷建夫 (2002.1.5)
★うーっ!なにかしゃべり始めたら止まらんようになりそうだ。
若い諸君が「日本沈没」や「復活の日」といった長編に取り組むのは大いによろし。なんせ年とると長編はしんどくなるからな。
それはわかっていて言うのだが、小松左京の真髄は短編にあるのだよ。
「かげろう(糸遊)」での清少納言と紫式部の鮮やかな登場ぶり。「蚊帳の外」(だったかな?)の江戸下町のむれるような臭い。挙げ出したらきりがない。そういえば「短小浦島」なぞも捨てがたい味だな。
ここ10数年ほどフィクションから遠ざかっていながら、エラソーなことは言えんのだが、珠玉のような短編をぜひ大切にしてくれよ。
きりがなくなりそうなので、ここらで終わる。
小長谷建夫 (2002.1.13)
★「見知らぬ明日」「こちらニッポン」「復活の日」が特に大好き。考証がしっかりしてるし、楽しませてくれる。
最近はミーハーなSFがおおく読む気がしない。(他の作家)
そこで、希望・願望ですが、上記3作品のその後シリーズを書いてみては。ぜひお願いします。
tarou choufu (2002.1.13)
★ この前ついつい、いらんこと書いてしまい自己嫌悪に陥っている小長谷じゃ。
小松作品の傑作に、長編も短編もない。すべてが傑作なのじゃ。
ナンダナンダこの言い回しは。普通に書け!フツーに!
どうもこの欄を見ると、先輩風をふかしたくなる性向があるようだ。反省。反省。
要するに僕の言いたいのは(ちっとも要していないのはわかっているが)、このサイトも少々寂しいのではないかということじゃ・・だ。
おいらの後で書きこんでくれたのは調布の太郎さんだけだし、その前と言えば、はるか昔、昨年秋の米谷嬢だよ。
しかも(いくつになられているのかは知らないが)米谷嬢は、この先世界はどうなっていくのでしょうねとの深遠なる疑問を我々に投げかけているのだよ!
誰も答えようとしてないじゃん!だめだよ。そういうのは・・・
俺はいったい何を言いたいのだろう?
そうだ!こうした疑問に対しては、こんな難しい質問に対しては・・・小松先生ご本人が答えねばならぬのだ!
・・・・・・・・・周囲沈黙・・・・・・
むっむっ、これはもしかして・・・この世界では言ってはならんことだったのか?
どうもコマケン周辺には怪しい雰囲気がある。書店から小松作品が急速に姿を消しつつあると思ったら、それはオンデマンドを促進するためでもなく、小松先生が笛を吹き、コマケンの面々がそれに従いどこか異次元の世界に飛び立つための・・。立つ鳥後を濁さずといった・・そんなことのような・・・ノンノコサッサ・・
いいのだ。俺は所詮コマケン会員になれなかった男だ。元コマケン会員の米谷嬢と一緒に、君達の旅立ちを見送ろうじゃないか。ねっ、米谷さん!
小長谷建夫〔2002.1.25〕
★ 「世界がこのあとどうなっていくか」なんて誰も答えられないですよね。まして小松SFを読まれている方々には愚問でした。(べつに答えてもらおうとして書いたのではないんです。)
確かに最近あまり書店でも、昔ほど小松氏の本を見かけなくなりました。小長谷さんによると、異次元の彼方へ飛び立とうとしておられるという・・小松氏にはぴったりの見解ですね。
私も、ベストセラーだとかそういう世俗のごちゃごちゃしたことから離れて、地球の外から、にこにこタバコをふかしながら、人間の営みを俯瞰されてるんだと思ってます。ちょうど小松氏が初めてSFと邂逅したときのように。
私が初めて小松氏の作品に感動したのは、「お召し」でした。短編でしたが、読んだあとの切なさは初めての体験で、以後のめりこむように読みはじめたんです。
数学・物理の類は全くだめな私でも、小松氏の作品なら「結晶星団」や「ゴルディアスの結び目」などの比較的ハードな作品でも、引き込まれるように最後まで読みました。(まあ、???なところはありましたが・・)
他にも挙げだしたらきりがないので・・・・。
米谷 [2002.2.10]
★ そうかあ!
無理やり答えを引き出す必要はなかったんですね。
あれは、フッと洩れたアンニュイな吐息のようなものだったんですね。
私はあれ以来、ちょっと考え込んだりしてしまったりして・・・は、は、は。
でも・・・
でももしかして、
もしかして米谷さんは、その答えの暗く重い結論を本能的に悟って、そこから遠ざかろうとしているのでは・・・ナンチャッテ。
ところで「ゴルディアスの結び目」は本当に凄い作品ですね。
夢枕獏が華々しく登場した時私は、小松作品の発想をエロティックバイオレンスでこね回しただけじゃないかと(それがよかったんでしょうがね)冷ややかに見ていたものでした。
まあ小松ファンを嫉妬させる筆力はあったんでしょうね。
また好きな作品、教えてください。
[2002.2.17 小長谷〕
★本日、何度目かの「果しなき流れの果に」読みふけり、を行いました。
もう10回は読んでいます。
ぜひ映画化してもらいたいものです。
KAZ [2002.2.24]
★ このページには何かルールがあるのでしょうか。
たとえば、続けて投稿してはいけないとか。あるいは、出会い系サイトのように利用してはいけないとか。
さて、やっぱり「果てしなき流れの果て」ですか。これはもう凄いもんね。
私も何度読んだことか分かりませんが、いつもイメージの奔流に翻弄されてふらふらになります。カズさんが、これを映画化しろというのも凄いね。
二時間程度の映画の中で、あれだけ時間と空間を飛びまわったら、だれも理解できないと思うけど。
だいたいこの物語は、時間、空間、人間と意識、親と子、男と女いろいろ入り混じっているけども、本当につじつまは合っているんでしょうか。いや決して合っていないというわけではないんですが、同じに合っていると確認もできないのです。でもこれだけの錯綜した物語です。食い違いや矛盾が一つもないなんてことはないと思うのですが、いかがでしょうか。誰か答えてくれえ!
2002.2.28 小長谷建夫
★ 事務局です。このページは、いわゆる「掲示板」方式ではありません。
読者の声を小松に伝えることを目的としております。そして、差し支えなければ、ホームページに掲載し、読者同士の意見交換の場にもなれば、と思っております。
もちろん、出会い系サイトのように利用することは、困ります。個人的なメッセージは削除させていただくこともありますので、よろしくお願いいたします。
[2002.3.1]
★(KAZさんの「果しなき流れの果に」全要約 [2002.3.1]は、ご本人の希望により、割愛させていただきました。 事務局)
★ 「果てしなき・・」ですか・・・。正直言って、何度読んでもよくわからなくって、「今度こそ。」と思いながら読んでもやっぱり・・。(頭の構造が単純なもんで。)でも、読者を引きずりこむ不思議な力がありますね。
短編ですが「人類裁判」はいいですね。最後のバクテリアの弁護側の証言では、泣きそうになりました。たかがちっぽけなバクテリアのセリフなのに、ウルウルするなんて・・。現在でこそ、『宇宙学』や『地球学』『人間学』なんて言葉が作られて、研究されようとしていますが、小松氏はもう昔から、こういう視点で宇宙や地球・人間を捉えておられたなんて、すごいことです。
あと、「夜が明けたら」も好きな作品で、何度も読み返しています。ここに出てくる、普通のお父さんが好きなんです。家族を愛し、自分の仕事に責任感を持ち、会社に愛着(今はもう私語になろうとしていますが)のある、小市民だけど、頼りがいのある男の人たちが・・・。これ長編にならないかな。
ああ・・止まらなくなってきた。誰か止めて・・。
もうひとつ。やっぱり短編で「ハッピー・バースディ・ツゥ」。家族であることの孤独が、芥川の「藪の中」以上の筆致でせまってきて、初めて読んだときは衝撃的でした。
今「遷都」を読み返そうとしています。いえ、読んだかどうか覚えがなく、本を買ったとき、とばしていたかもしれません。小長谷さんの文章の中に安部清明という文字をみつけて読んでみたくなりました。夢枕獏さんの原作は読んだことないですが、コミックと映画はけっこう良かったので。
米谷[2002.3.2]
★ カズさん。おそれいりました。
あなたの熱き思いが、伝わってきました。
でも、でもやっぱりこれは無理なのではないでしょうか。「斬新なイメージが次々と現れるが、極めて難解であり、脚本家はストーリーを整理しきれていないようだ」などという新聞評が目に浮かびます。
勿論、映画ができたら、私は観に行きますがね。
「夜が明けたら」は、たまらなく好きな作品です。ありえないことなのに妙に現実感があります。
だいたい、地球の自転があれだけ短時間の間に止まってしまったら、慣性でエレベストの頂上まで津波が押し寄せるようなことになってしまいますね。尤も自転のストップという考えられないことから話はスタートしているわけで、矛盾を言いたてる方がおかしいのかも知れません。
あの後、夜側は急速に冷えて、昼側は炎熱地獄と化し、朝と夕の地域の人類だけが激しい偏西風に悩ませながらも生き残るのでしょうか。
意外とあのお父さんたちは自転車でそこまで辿りついていたりして・・・
いやこんなことを考える必要なく、この作品はただ、あの「夜が明けたら・・・」とつい思ってしまう現実感とあり得ない事態の妙なギャップがすべてだとは思ってはいるのですが・・・
もっともっと好きな作品教えて下さい。
2002,3,6 小長谷建夫
★ お・・おれは、ついにこの「読者の声」欄のルール(誰が作ったルールだ!)を破って、続けて投稿してしまうのだ。
だって、誰も投稿してくれないんだもん。
カズさんは怒っちゃったのかな。ついつい本音を書いてしまってゴメン。
米谷さんは何処行っちゃたんだろう。
もしかして、おいらを置いてコマケンのみんなとどっかへ旅立っちゃったんだろうか。
おーい!みんなどこにいっちゃたんだー。 ・・・・・
桜吹雪の舞う夜に、なんだか孤独を感じる今日この頃である。
そういえば、この前ちょっと事務局が顔を出したことがあったな。 あんたでもいいから何か言ってくれー!
2002.4.1 小長谷建夫
★ 続けて投稿していけないなんてルールはありません。
どうぞ、どんどんお寄せ下さい。
小長谷さんのおっしゃるように、投稿が少ないのですが、これは「掲示板」とは違うので、こんなものでよいのではないか、という気もしているのです。
すぐにリアクションを求め、それがないと不安を覚えるというのは、携帯電話やメールの悪しき傾向だと思います。
人それぞれの中で熟成する時間は異なり、その人なりのテンポで時間が流れる、と考えるのは、事務局の怠慢を糊塗するいいわけにすぎないでしょうか。
2002.4.2 事務局
★私の中での小松左京氏は1970年代から80年代にかけて活躍したSF作家という事で、最近ではもう作家としての活動はほとんどやっていないものと思っていました(阪神大震災の時は「日本沈没」の関係で注目を集めましたが、その後はオモテ舞台に出ていない→イオHPの作品リスト見ても、この10年はノンフィクション又は対談ものがほとんどです)。
そんな訳で「虚無回廊」はっきり言って読んでません。小松ファンとしてはいささかうかつではありますが、この10年ばかりとにかく新しい本をほとんど読んでおらず、古い本を「棚つか」でテキトーに選んで読むというパターンで、まさに「十年一日」の暮らしをしていました。結局、昔から読み慣れている「果しなき・・・・・」を延々と読み続けているうちにたまたまこのHPをのぞいてしまった、という訳です。
小松氏に対する私の個人的な独断:「日本沈没」でなまじ「社会派SF作家」として注目されすぎたために却って動きづらくなってしまったのかなー。
今回、「読者の声」がらみでちょっと気になって改めて本屋の調査を行いました。通勤圏内の書店(駐車30台以上)を10軒近く廻ったのですが、小松氏の小説は2店で「日本沈没」があるのみでした。まさかこんな状況になっているとは思ってもみなかっただけに、本当にショックでした。我々小松ファンのイメージに対し、世間一般の扱いは比較にならないくらい冷たいものがあります(ある書店では「並べても、ねえ・・・」とモロに言われ絶句)。この責任は誰にあるか?最もドライに言うならば、・・・・・
私にとっての小松氏のピークはやはり「果しなき・・・・」(65年)、引っ張っても「BS6005に何が起こったか」(71年)あたりまで。「日本沈没」(73年)は日本民族に対する哀惜、感情移入という側面に引っ張られて、作品の叙情性は優れていたが、個人的には何度も読み返す気にはならない・・・・・
「題未定」になると、雑学の寄せ集めといった雰囲気で、この辺りから確かに小松離れが始まったのかなー、と思います。「首都消失」は朝日新聞に掲載され、当時ずいぶん頑張って読んだのだけど途中で挫折した記憶があります。大きな賞をもらったみたいですが、モチーフは「物体O」の硬い壁が雲状になったのみで、描きたい本質は「日本沈没」の類型の様な気がします。まあ、それはそれでいいのですが、私の期待からはどんどん遠ざかって行きました。
でも、過去にこれほどの話題作をたくさん出し、知名度も高い(まだ生きている!)作家の作品がここまで書店から消え去っているという現実をどう考えるか。
SFの限界という言葉も良く聞きますが、クラークの「2001年宇宙の旅」は現在でも苦もなく手に入ります(もう1冊、私の3冊目に好きな山本周五郎の「さぶ」も本屋に並んでいます)。やはり作家である以上、走り続けていなくては書店に「あるエリア」を確保出来ないという事でしょうか?
「BS・・・・・・・」で宇宙が意識体であるという概念、人が生きる意味、存在するという事は何か?、こういう深みにどっぷりとはまって行く予感を感じたのですが、やはり「虚無回廊」の作品コメントなんかを読むと、SFという仕掛けのディテールにこだわっているのかなーという印象があります。もっと自由でいいと思います。心の深みにズブズブ沈み込む様なものが描けると信じています。
安部公房なんかは、技術的ディテールは弱いけど精神面でのそれは実に深い。彼の遺志を継ぐ意味でも小松さんに頑張ってもらいたいと考えています。
(小松さんって、けっこう安部公房を意識していると思うけど気のせい?)
ごめんなさい。何かいっぺんに爆発してしまったみたいです・・・・・・失礼は承知の上での玉砕です。
ちっとも励ましになっておらず、辛口事務局の意向とは全く逆の事を言っており、掲載されるかは微妙ですね(まあいいか)。
2002.4.12 KAZ
★KAZさん、ちっとも失礼ではありません。お気持ちはありがたく、小松に伝えました。
小松からの返事としては、『虚無回廊』まだ読んでいらっしゃらないのでしたら、読んでください。今までは、まさに宇宙にとって人類の意味は何か、なぜ、宇宙は人類のような知性体を生み出したか、という問題を考える仕掛けを語ってきたので、いよいよこれから本題にはいる、ということです。「果しなき・・・」と「継ぐのは」と「神への長い道」のテーマはずっと「虚無回廊」にまでつながっているのです。でも、作家も生身の人間だ、ということは、逃れようのない現実です。
2002.4.13 事務局
★コメント有難うございます。
「作家も生身の人間であるという事は逃れようのない現実です」という言葉に胸を突かれました。作家活動をしているうちにはスランプもあるでしょうし、自己の表現したいものも変化していくのは当然でしょう。読者という立場でちょっと言いすぎました・・・・・・。やはりファンであるがゆえのワガママというか、願望が先に立って「安部は深い」なんて聞いた風なことを言ってしまう。「人生は自己顕示欲との戦いダ」などど思っていても、まだまだ未熟です。
「牙の時代」の中の「ト・ディオティ」を読み返しました。最初読んだ時は20代で、さほどの感銘は受けなかったのですが、今回小松氏の当時の年齢に近くなってからでは、読んでてクラッとくる感覚がありちょっとヤバいな、と思いました(共感できるのがこわい)。同様に「小説を書くということは」に至っては、当時は単に〆切逃れのせこいやり口やなーと半分軽蔑したものですが、もう一枚下にあったのかな、と改めて思っています。
HPを覗いたのも何かの縁だと思い、古本屋を廻って小松氏の本を探しています。先日は「サテライト・オペレーション」を100円で購入しました。「星殺し」は途中から「レムじゃん」と思いましたが、モチーフだけ借りて小松氏独自のアイデアでひねってあり、楽しめました。
イオHPの「作品リスト」は非常にスグレモノです。始めはワードで読み込んだのですが、入り方がワードっぽくなかったので、EXCELで読み込んだら、セルの区分通りに入りました。それで自在に編集、ソートが出来るので、今まで読んだ本の整理をやっています。長編はポピュラーなので問題は短編集です。ノンフィクションを除外して520タイトルあまりの短編、ショートショートが発表されています。1965年には実に97タイトルもの作品が作られています(果しなき・・・もこの時)。「コンピューター付きブルドーザー」と言われていたのはこの頃ですか。文庫では角川、新潮、ハヤカワ、集英社あたりで短編集が40冊程度発行されています。各冊平均10編として400タイトル、文庫を全て読めば、まあ小松作品の8割程度はカバー出来るでしょう。私が読んだのは約10冊分ぐらいですか、歯抜けもいいとこですが。そういえば全集が出ているそうですが、どうやって購入するのかな?(電子なんとかってのはニガテ)。
「虚無回廊」書店で注文しました。2〜3週間ほどで入手出来そうです。楽しみです(1,2はハルキ文庫ではなくて3と同様角川春樹事務所のようです)。
2002.4.22 KAZ
★全集はオンデマンド形式です。簡易製本ですが、本にしてお送りいたします。
現在、短編は100編をこえました。今月末には「60年代短編5」として1966年発表作品14編をアップします。
お好きな作品のみ組み合わせて購入できます。
ご注文はご面倒でも、http://www.bookpark.ne.jp/sakyo/ へアクセスしてください。
2002.4.22.事務局
★ かつて開高健が小松先生を評し、「小説の途中で、時に専門領域に入りこみ、長々と自説を開陳し続ける性向があり、話の流れを止めてしまうことがある」というような趣旨のことを言ったことがあった。
俺は怒ったね。ケンちゃん!偉大なる小松先生に対してなんちゅうことを言うねん。ケンちゃんのことを俺は「オーパ!」以来わが国の文壇のトップクラス(勿論小松先生のNEXT)にランキングしてきたけども、それを言っちゃあもうお終いだ。と決別宣言をだしたこともあったくらいだ。
いまから思えば若気のいたりだけどね。そのくらい俺は熱烈なる小松ファンだったということを言いたいわけだ。(冷静に考えてみると確かにその傾向はあるもんね。小松先生には)
開高先生が鬼籍に入られた今、俺もつっぱる必要がなくなって、すべては恩讐のかなたに去ってしまっている。時々大阪へ行った時など、おでん屋でケンちゃんがこよなく愛した鯨のサエズリなどで一杯やって、ほろ苦い思い出に耽ったりしているのだ。
罪なお方であることよ。小松先生は!
久しぶりで本欄を見たら、かずさんのおしゃべりなどで賑やかでうれしかったよ。
2002.4.27 小長谷建夫
★5月の連休に古本屋を廻って文春文庫版の「夜が明けたら」を入手して、話題(?)の表題作をようやく読む事が出来ました。小松氏の様に短編が多いと、他の人にとっては以前からなじみの作品も、自分では全く未知であったりします。
そこで・・・・表紙カバーの作者名を見たら「萩尾望都」さんとあり、突然30年近く前の記憶が甦りました。この方の「地球(テラ)へ」という作品の中で確かに「マツラ」という男性が登場人物として描かれていた筈です(中性的で、結局途中で死ぬのですが)。またこのドラマの中で盲目(めしい)の巫女が人の深層心理の中に入り込み、深く沈んで癒すシーンがあって、雑誌を一度読んだだけでしたが、けっこう印象に残っています。私は純然たる文庫読者であり、小松氏と萩尾女史との関係は全く知りませんが、作品でコラボレーションした事もあるのでしょうか?
2002.5.21 カズ
★「夜が明けたら」の感想はともかく、米谷さんとおいらはきっといいことをしたと思うよ。
だって、目的もなく古本屋を回るのも楽しいけど、何か目当てのものがあれば、その楽しさは倍増するもんね。
ところで萩尾望都って、モー様のことかしら?モー様といえば、光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」という、とほうも無い小説をマンガにしちゃったひとだったかな?とすると,なかなかの才能だが・・・でもやっぱり小松作品はモリミノルに任せておいた方がいいと思うな
さて、30年前に萩尾マンガを読んだと言うカズさんは、どう考えても40代以上だね。実は本欄の事務局が、すぐにリ アクションを求めるのは現代人の悪しき習性というから、できるだけ知らんふりしていようとしたのだが、カズさんの投稿を読んでうれしくなっちゃたな。この次はマンガ論でもやりたいね。
2002.5.22 小長谷建夫
★ 「地球(テラ)へ」は萩尾望都ではなく、竹宮恵子の作品だと思います。(私は両者とも好きですが。)
私の記憶では、萩尾望都と小松氏はお互いの作品集のあとがきを書いておられたように思います。
萩尾望都は光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」やブラッドベリの「ウは宇宙船のウ」(短編集)などを描いておられます。特に「ウは・・」はブラッドベリの叙情性と彼女の作品の持つ雰囲気にピッタリはまってすばらしいできだと感じました。私個人としては、彼女の最近の作品よりも、やはりSFものやファンタジックなものがいいです。お気に入りは「11人いる!」「ポーの一族」(吸血鬼の少年たちと人間たちとの関わりを2百数十年にわたる時間の流れの中で描いています。)です。他に「スターレッド」「半神」など、日本の女流漫画家では第一人者でしょう。
すみません、小松氏から話題がそれてしまいました。
2002.5.22 米谷
★すみません。とんでもないカン違いをしていた様です。でも「マツラ」の事は深く記憶に残っているんだけど、一体なにを見たのだろう?いずれにせよもう歳ですかね・・・・・・
そんな訳でしばらく沈没します。
2002.5.24 kaz=カズ
★ すぐにリアクションをする(求めるだったかな)現代人の悪しき習性を体現している小長谷です。
でも今回は特別だもんね。
そろそろ自分の投稿が載ったかなと思ってページを開けてみたら、なんと時々眠り姫になる米谷さんがおいらと同じ日に投稿しているではないか。
米谷さんも光瀬龍の「百億の・・・」を言っているのには驚きました。しかもおいらよりはよっぽど萩尾望都については詳しそうだ。ゴメン、実は女の子達がモー様だか,モト様だか言っていたのを思い出して、つい知ったかぶりをして、あんなことを言ってしまったのだ。
「半神」は双生児の話だったかしら。うーむ、少女マンガ恐るべし。
2002.5.25 小長谷建夫
★ W杯の狂騒に巻きこまれていたおいらであったが,明日の決勝戦を前に、心を落ち着かせるために、久しぶりで本ページを開けて見たら、そこは時の止まってしまったかのような静かな世界で、まるで霧の中の摩周湖のような感じであった。KAZさんは湖の底深くに沈潜してしまっているのだろうか。
周りを見ても誰もいそうもないから、どうでもいいおしゃべりを一つ。
「マツラ」であるが、「果てしなき・・・」の中で、日本人松浦とアイの複合意識体として登場するが(ここらはかつてカズさんが書いてくれた脚本を見なおして確認させてもらった)、若き頃読んだ俺は、松浦がマツラに変わるのは、意識の階段を一つ上って名前も変容してきたんだなと思っていた。
しかしその後、欧米人が松浦の名前をマツラと呼ぶことに気付いたのだ。これは要するにあれだ。日本人が英語を習う時、誰もが苦労するLとRの発音の違いなのだ。欧米人は日本人がMATSUULAというと、これがMATSURAに聞こえ、欧米人がMATSURAと発すると、日本人にはMATSULAに聞こえてしまい、結果としてマツラとなるという不思議な現象なのだ。小松先生は単にこれを書いただけで、別に名前に何の意味を持たせたのではなかったのだ・・・なんてことはないね。
そういえば、TVCMで「アサヒ・スーパー・ドゥウライ」と確かに言っているが、居酒屋でおいらが頼む時は「スーパードライね!」なんて言ってるもんね。
きっとこんな」おしゃべりも、霧の摩周湖の水面に何の波紋も起こさず、静かに沈んでいくことだろう・・・・・
あっ!そんなこと言ってるうちに、そろそろW杯3位決定戦だ。テイハンミングック!
2002.6.29 小長谷建夫
★ 事務局です。掲載が遅くなって、すみません。W杯も終わってしまいましたね。
小長谷さんのご指摘になった「マツラ」ですが、これは読者の方で気がついた方は少ないようですが、佐賀県唐津市に伝わる「松浦佐用姫伝説」からとっているのだそうです。「マツラサヨヒメ」と読みます。「佐世子」の名前も、そこから来ています。松浦潟(マツラカタ)から朝鮮に出征した許嫁との別れを悲しみ、佐用姫は石になってしまった、といえ話。
つまり、「松浦」は「マツラ」と読むもので、意識の階梯によって名前が変容したものではない、ということです。しかし、漢字で書かれると、日本人は「まつうら」と読んでしまうので、別の意味をこじつけたくなってしまいますが。
2002.7.2 事務局
★ そっ、そうだったのかあ!。とするとなにか?つまり松浦は最初から ま つ ら って読まなければいけなかったのか。
マツラとなったのも、単に無国籍になっただけのことだったのか。
いやあ!独り善がりの屁理屈を述べてしまい,少々てれ臭かったが、いい勉強になった。もしかすると「果てしなき・・・」の本質に一歩近づいたのかも知れん。
それにしても事務局は、何気なく“意識の階梯”なんて間違いも指摘してくれたりして、思いやりを感じてうれしかったぜ。
こんなことにめげずに、次のおしゃべりをするところが小長谷のいいところなのだ。
1年ほど前のNHKの時代劇ドラマ「お登勢」を、ご覧になった方はいらっしゃるだろうか?主人公の「お登勢」を演じた沢口靖子のイモっぽさが、配役にぴったり合って、なかなか評判のよかったやつだ。
お登勢は片思いの悲しさ、せつなさを、自分の浄瑠璃人形に語り掛け、泣かせるのだ。おいらが何を言いたいかと云えば,小松先生の「あやつり心中」の娘を、沢口靖子にやらせてみたいということだ。
カズさん。生きていたら聞いてくれ。もし「あやつり心中」読んでいないなら、こいつはお薦めだぜ。一日古本屋めぐりをしても、十分価値のある作品だ。それに映像化のために書いてくれたようなドラマだし、少なくとも「果てしなき・・・」より脚本は楽だし、ここはカズさんの出番と思うのだが・・・。事務局は事務局として即刻テレビ局なんぞへ、売りこみをかけてくれえ!
2002.7.4 小長谷建夫
★ いいアドバイスをありがとうございます。
本当に、そうですね。さっそく売り込みましょう。
2002.7.5.事務局
★はじめまして。48歳、男性です。
私は、よく、小松左京氏の夢を見ます。
小松左京氏は、私にとって「師」。勝手に、そう思って生きて参りました。勝手にそう思うことに、また、不甲斐なく無学な自分に、ひけ目があるのでしょう、夢の中でも、小松左京氏は遠い星。もったいないのです。片想い。
30年ほど昔の恋人が現われることもあります。小松左京氏と、昔の恋人、夢からさめた後、こころが、しーん、とします。私にとって「神聖」なのです。
だからでしょう、インターネットで「小松左京」というキーワードで検索することを自らに禁じて来ました。でも、今日、その禁を解き、このホームページにやって参りました。
「臥猪庵hic」の中に「4年前に白内障の手術をして」という文を拝見し、こころが痛みます。生身の人間。私の父も先日、白内障の手術をし、さらに網膜はく離の手術をして、いまも入院しております。父は昭和3年生まれで、小松左京氏と同じ時代を生き抜いて来ています。強い。この世代の方々は強い、と思います。
十年近く前、小松左京氏のある講演会に参加させていただき、「先生! 虚無回廊の続きは?」という質問が喉まで出そうになり、こらえ、そして近年、自分の会社を持つようになり、同じ質問を自社のホームページで、ひっそり、自問するように繰り返しています。ごめんなさい。
ラブコール多しと思いますが、どうか、ご無理だけはなさらずに。ご自愛を。きっと、アンジェラも、それを...。
2002.7.5 Hattori
★いやあ!おいらも相当な小松狂いだと思っていたが、Hattoriさんにはまいった。PUREなだけに少々凄みもあるもんね。異性同士だったら(つまりHattoriさんが女性か、あるいは小松先生が女性・・ウェッ!・・だった場合)これは、ほとんどストーカーの世界なのかもしれないね。Hattoriさん、この欄で思いのたけをぶちまけておくれ!
とかなんとか言って,何気なく本題に入るのだが、本棚の奥から埃だらけになった「果てしなき・・・」を引っ張り出してきて,ぱらぱらとめくっているうちに、こんなことに気がついた。
地球が崩壊する寸前、松浦たち人類を救ったかに見えた宇宙人の代表が「マツウラさんですな?」と間違った発音をしているのだ。まあ考えてみれば、数万光年先からあわてて飛んできたヤツだ、マツラサヨヒメ伝説を知らなくて当然だけどね。(ちょっとしつこいかな)
話変わって、ふと思いつき、光瀬龍を検索してみたら、ここでも驚いた。「果てしなき・・・」と「百億の・・・」を比較して、前者はまだ既成観念にとらわれていて、後者の自由なる発想にはとても敵わないのだ、と断定している奴がいたのだ。何せあっちは光瀬狂いだから気持ちはわからんでもないが、両者をこよなく愛するおいらとしては、なんで比較しなくちゃいけんのよと思った次第でありました。
2002.7.11 小長谷建夫
★二度目の投稿、夢見る中年男、Hattoriです。
私の枕元にはパネルがあります。二十数年前、LPレコードに特典として付いてきたもので、題名「小松左京 宇宙に逝く」(小松左京 年譜、1978年参照)。
昨晩、ジェーンウェイ艦長はクルーと共に地球に帰還。
時空工学とジェーンウェイ「提督」の助けによって。
月のピコ山の地下深くには、HALとボーマン。
小松左京氏は、いま、AEと共に虚無回廊に。
「この欄で思いのたけをぶちまけておくれ!」との小長谷さんの声。−−そうさせていただきます。事務局を困らせるくらいに、
投稿させていただく、としましょう。だって、投稿件数が2年余りで50にも満たないなんて、それはあんまりだ。6月29日の小長谷さんの嘆き、「時の止まってしまったかのような静かな世界」じゃ、数多いはずの(中村さん曰く「何千万人」の)読者も、投稿をためらっちゃうかも知れません。小長谷さんは自ら「呼び水」の役を買って出ているのでしょうか。もし、そうでしたら、それは成功です。まずは、表明まで。
事務局様、どんどん投稿しちゃいます(笑)が、ご用意の程は?
2002.7.17 Hattori
★どうぞ、ご遠慮なく、どんどん投稿なさってください。準備、オーケーです。
2002.7.18 事務局
★ Hattoriです。
小長谷さん、KAZさん、何千万人の読者の皆様、事務局様は「準備、オーケー」だそうですよ、ありがたいではありませんか! 一読者が、こういう形で小松左京氏にエールを送ることができるなんて。片隅でひっそり夢見ているだけの読者から、感謝を表明する機会を持てる読者になれるなんて。
地震が起きようが、テロが起きようが、景気がどうなろうが、そういった「現実」を超えた”i”の次元、あるいは「知」の時空があること、そして、その総和としての宇宙、その宇宙、この宇宙をこよなく愛し、探求する小松左京氏。そんな小松左京氏に、読者は(すくなくとも私は)、まいっております。「魂のマッサージ」。
月並みな表現ですが、小松左京氏には長生きしてもらって「虚無回廊」を書き続けていただこうではありませんか。どっこい、読者は、「待つこと」を知っています−−。
ところで、事務局様、小長谷さんの提案に引き続き、私もひとつ。LPレコード「小松左京 宇宙に逝く」のCD化の企画を提案。オンデマンド版も多彩に。
2002.7.19 Hattori
★他に、筒井康隆さんの「文明」、星新一さんの「星寄席」の三枚でAmazing
3 というシリーズで出ているのですね。ビクター音楽産業にまず、提案してみます。
2002.7.20 事務局
★そうです、三枚! 発売当時は貧乏で、「宇宙に逝く」だけをパネル付きで買いました。ご存知ない読者の皆様も多いのでは。バックの音楽も美しい。−−それにしても、打てば響くような事務局様、ありがとうございます。暑中お見舞い。昨晩は、花火を見ました。感動はSFだ。
2002.7.21 Hattori
★ Ha・・Hattoriさん!クッ・・クッ・・ク (泣いているのだ)。そうなんです。おいらは呼び水だったんです。
だって、小松先生のために、おらっちにできることといったら、この欄を一生懸命盛り上げて、エールを送ることぐらいだもんね。
ところでと、すぐに話は変わってしまうのだが、昨夜「スターウオーズ=エピソード2」を観に行ってきた。
20数年前、初めて「スターウオーズ」を観て大感動して以来、おいらは律儀に続編を観続けているのだ。エピソード1の時は、居酒屋で一杯やっていったせいか、途中で眠ってしまうという失態を演じてしまった。実は年のせいか、CG駆使の映像は、正直少々しんどくなっていることを感じているのだが・・・今回は襟を正し、コーヒーを飲んでいったから大丈夫。
で、感想はどうかと言えば、なかなか楽しかったよ。あの映像を20数年前に観たら、どんなショックだったろうね。
ストーリーの展開も、映像もとんでもなく早いのだが、なにせ悪い奴、いい奴がはっきりしているから問題無いのだ。
いつかKAZさんが言っていた「果てしなき・・・」の映画化も、善悪を明確にしておけば、いいのかも知れないね。
でもその場合、マツラ側と野々宮側とどっちが悪い奴なんだ?「スターウオーズ」の中でも、ヨーダが「フォースの暗黒面が広がっている」とかなんとか言っているけど、それはこっちの論理で、向こうでは正義に違いないもんね。
ところで、今気付いたのだが敵味方の2人が親子という設定は、「スターウオーズ」と同じだな。もしかしてジョージ・ルーカスがアイデアを盗用したってことはないか?
またマツラ論争(?)の時のように、勝手な理屈で恥をかくといけないから、ここらにしておく。
それにしても、やはり松浦がマツラになったのは、意識の階梯によるものじゃないのかなー?
2002.7.21 小長谷
★ コマケン時代の思い出です。
関西で小松氏がプロデュースされた大きなイベントがあり、(万博ではありません。念のため。そんなに古くないです。)関西支部のメンバーもスタッフとして、雑用のお手伝いをしていたんです。会議室で、小松氏の奥様にお目にかかれる時間がありました。(もちろん、他のメンバーも一緒です。)
どんな話をしたかはもう忘れてしまったんですが、ねぎらいのお言葉もていねいで、聡明で美しい方でした。下積み時代、この方が小松氏を支え、また氏もこの方のためにあの多くの傑作を書かれたんだとしみじみ納得しました。「木静かならんと欲すれど」などに登場する、聡明な妻のモデルはきっと奥様なんだろうと勝手に思い込んでいます。(そういえば眉村卓氏も奥様の為にたくさんのショート・ショートを書かれたんですよね。)
「エピソード2」は今週あたりに観ようかと思っています。でも、前3部作に比べたらかなりテンションが下がっていることは事実ですね。
前3部作の1作目「エピソードW」は興奮して、11回観に行ったぐらいはまりました。お金のなかった頃なのに、『これこそ、映画だ。』と思ってました。今もそう思ってますが。
残念ながら日本映画では、こんなにはまった映画はまだありません。
でも、日本映画の作り手側の問題は別として、題材は日本にもすごいものが多くあると思いませんか?
2002.7.22 米谷
★ そうだ、そうだ。「一生懸命盛り上げ」ましょう、小長谷さん。
「一生懸命」。この困難な時代に、なんて健気な言葉でしょう。
20日、小長谷さんが「スターウオーズ」を楽しまれていたちょうどその頃、小生は川風に吹かれながら花火見物。中天に昇った月をバックに、シュルシュルシュル、ドッカーン。打ち上げ花火の煙で月も隠れ、終盤は息もつかせぬ速射連発花火「スターマイン」。大音響を胸に残して。花火師の「一生懸命」に感謝。
何度目になるのか、先日は「さよならジュピター」をLD(レーザーディスク)で見ました。小松作品の映画化は熱烈読者の悲願。待つことです。新たな才能と時代を。一生懸命語り継ぐこと、それでいいのだ。ごめん。
今年の夏も、花火のハシゴ。どうやら、めでたい性格のよう。入院中の父も、病院の窓から眺めたいと申しておりました。
2002.7.22 Hattori
★映画界再編のニュースが本日の新聞に載っていましたね。「日本にもすごいものが多くあると思いませんか?」という米谷の呼びかけには、そうだ、そうだ、特に小松作品! と応えたいと思います。でも、映画製作って、何十億円、何百億円って莫大な資金が必要なんでしょう。小松氏は「さよならジュピター」製作のために会社まで設立されました。
夜の高速道路をのんびり走りながら、久々に「宇宙に逝く」を聞きました。そして、考えたのですが、お金を掛けない映画だって可能なのではないかと。スクリーンを「従」に、音響を「主」に、ひっくり返した映画製作法。メインの音響の方は、「宇宙に逝く」で実証済み。スクリーンには、星雲、天の川、月や地球、青空、雲、山や川、人々の眼差しなどを、画像ないしは動画で巧みに組み合わせ、音響に同期してスリリングに切り替え、若干のCGで充填してゆく...。俳優、ロケ、セットという既成概念を捨てて考え直してみたら、映画の可能性はアニメをも超えて、小説に限りなく近く、かつ、小説の可能性を深める映画が可能ではないかと。ただ、あくまで主役は、ストーリーとセリフや語り。ここを外せば、USJになっちゃうから。
ビジネスとして成立させるためにはSS(虚無回廊のSSではなく、ショートショート)的なものをインターネットで配信。−−あぁ、小生に才能と時間とお金があったら、いっぺん実験してみたいなぁ! 花火のハシゴが精一杯。やれやれ。 「宇宙に逝く」の7号艇コンピューター「ナンシー」は、「さよならジュピター」のセクレタリー・コンピューター「Nancy」に引き継がれています。あの声、ひょっとして同じ声優さん?
2002.7.23 Hattori
★「さよならジュピター」のラスト、クレジットの「協力」の欄に「ソード株式会社」の名があります。映画の製作が1983年ですから、当時は、今のパソコンがマイコンと呼ばれた個人用コンピューターの黎明期で、様々な夢を持てる時代でありました。エレクトロニクス業界の片隅にいた小生は、躍進中のソードの社長様にお会いする機会がありました。星新一氏の長編小説で、星一氏が製薬会社を順調に伸ばされている活気ある様子を、「階段を二段飛びで」と描写されていますが、まさにその通り、社長様にソード本社内を階段二段飛びでご案内いただいたことを、ありがたく思い出します。気が付けば、あれから20年、パソコンも成熟期を迎え、夢を共有した人々も散り散りになりました。ゲルマラジオ、真空管、マイコン、アセンブラ、DOS。個人や少数のグループで夢を追うことができた時代。いつの間にか、「スタンダード」一色。もっと別の、真に「パーソナル」なコンピューターも可能なはず。そして、もっと別のSF映画だって可能なはずです。片隅で夢見ている読者だって、いつまでも眠っているとは限りません。小松左京氏を称して「コンピューター付きブルドーザー」、氏の後にはぺんぺん草も残っていない、と嘆息された当時若手作家の方々。しかし、読者のこころには様々な種が蒔かれ、この困難な時代が、困難ゆえにこそ、それらの種を促し何かを芽吹こうと悩み苦しんでいるのを感じてなりません。
十分です。もったいない。小松左京氏には、どうか心置きなく虚無回廊に。
2002.7.23 Hattori
★ 夏本番。事務局様、読者の皆々様、暑中お見舞い申し上げます。
おぉ、季節がめぐるしあわせ。地球の公転に乾杯。オリオン腕の渦巻きにのって銀河周回の旅。ヴォイジャーは、いま、どのあたり?
2002.7.25 Hattori
★ オットット!怒涛のごとくのHattiriさんの投稿。もう負けそー。
だが、呼び水のおいらは、ここでひるんだりしたらいけないのだ。
といって、このくそ暑い夜に、難しいことを考える気力もないから、個人的な思い出をひとつ。
中学生の頃、福島正実編のSF短編集、それもちょっと助平な話ばかり集めた「SFエロッチク」とかいう本で、小松左京先生の「ぬすまれた味」を読んだのが、おいらの,小松ワールドへの第1歩だった。
考えてみれば、あの頃の中学生は(おいらのことでもあり、一般的な中学生のことでもある)本当にうぶだった。
高級コールガールのグラマーなお姉さんが、「あら!助平なジジイかと思ったら、意外と若いのね」とかいう場面から続く展開は、主人公のオットセイのほえ声が自分のものかと思うほど興奮したものだったぜ。
今の中学生は馬鹿にするだろうが、おいらから言わせれば、いつでも助平ビデオなんかを見ることのできる環境にある今の中学生こそ可哀相と思うのだが・・・
ともかくも「日本アパッチ族」など、その後小松作品を出版と同時に読むことのできたおいらは幸せ者である。
2002.7.27 小長谷
★ 待ってました。「小松作品を出版と同時に読むことのできたおいらは幸せ者である」。同感! よくぞ、言っていただきました。小松左京氏と同時代を生きることのしあわせ。運がよけりゃ「虚無回廊」のつづきだって! (ごめんなさい)
氏は、小生の父と同世代。この世代の方々は、人生そのものがSF。20世紀という激動の時代から、かつて「未来」だった21世紀に。しかも、時代は、いや、少なくとも日本は、現在「未体験ゾーン」に突入中、悲観一色。元気を出す視座はSFしかない、勝手にそう思っています。
人類のありあまるエネルギーは宇宙へこそ向けるべき。しかし、いやもう、じつに「くそ暑い」ですねぇ。宇宙は涼しいでしょう。再度、暑中お見舞い申し上げちゃいます。
2002.7.29 Hattori
★ 8月だ、真夏だ、くそ暑いのだ、だから幾度でも暑中お見舞いしちゃうのだ。
続けざまのHattoriでござる。
先日の深夜、「時をかける少女」が再放送されました。角川映画、TVヴァージョン。映画公開はもっと以前。さらに遡れば、NHKのTVドラマ「タイム・トラベラー」。なんだか見ているほうも時間旅行しているような不思議な気分。時のやさしさ、切なさ。日本のやさしさ、切なさ。気が付けば目に涙がいっぱい。筒井康隆氏のやさしさに、ありがとう。−−日本て、本当はいい国なんですね。
「果てしなき流れの果に」その第9章4に「人工眼」、「電子の眼」という描写があります。Nはむしりとって跳躍、流れの果てへ。網膜はく離で入院しておりました父は数回の手術を経て無事退院。感謝。目が見えるって、なんて素晴らしいことでしょう。目が見えなければ「時をかける少女」を見ることも、「果てしなき流れの果に」を読むこともできやしない。
「2001年宇宙の旅」が語り草のSF映画なら、「果てしなき流れの果に」はやさしい日本の語り草のSF。もったいないから、いまだ、語れやしない。ごめん。
「20001年宇宙の旅」をクラーク氏は書かないのだろうか。われらの小松左京氏は「虚無回廊」を。マツことのできるわれらはしあわせラ。さぶい? だって、暑中見舞。
2002.8.2 Hattori
★ 突然だが、これからある大型プロジェクトに取り組むことになり、願を掛けることにした。一番大切なものを犠牲にしようと、プロジェクト終了の10月までこのページを開けないこととする。(実は時間がなくなってしまうのだ)
そこで最後に、作り話のように思うかもしれないが、昨晩見た夢の話をする。
小松左京マガジン七巻が届き、夢枕獏さんとの対談を読んだ。以前話したように、「ゴルディアスの結び目」から獏さんは着想を得たことが表明されている。バクがパクったなどというサムーイ話を考えているうちに寝てしまったからだろうか。なんと小松左京先生が登場する夢を見たのだ。
小生が小松先生の所へ行き、シンポジウムのパネリストとなることを要請するところから夢は始まる。小生はつい「先生、読者の声を読んでいてくれますか」と問うと、先生ポカンとするので、「私が小長谷です」と言うと、「ああ!君か」と大きく頷いてくれた。そこで小生はカメラを忘れたことに気付き、町のタバコ屋に使い捨てカメラを買いにはしるのだ。
そこから先は支離滅裂となるのだが、上記の出会いの場面まではかなり鮮明な夢であった。
さてHattoriさん。本欄の維持を頼んだぜ。きっと眠り姫も沈没男も協力してくれることだろう。10月にはプロジェクトの成功話を引っさげて帰ってくるよ。ご健闘を!
2002.8.3 小長谷
★ 小長谷さん、Hattoriです。「頼んだぜ」なんて、泣かせるセリフだよ。小松左京氏の夢を見るもの同士だ。頼み、引き受けました。
「読者の声」欄へ初の投稿後、「この欄で思いのたけをぶちまけておくれ!」との小長谷さんの声。事務局様の「準備、オーケー」。しかし、いまだ、何も語れていません。小長谷さんの留守の間、それを少しづつ書いてみようと思います。
小長谷さん、プロジェクトでは思う存分のご活躍を。そして、戻ってきてください。待っています。
まずは、取り急ぎ、声援まで。
事務局様、本投稿はほぼ「私信」ですが、なにとぞ掲載の程、お願い申し上げます。小長谷さんに伝えたいのです。
(しかし、意外な展開。能天気な私は、昨晩も今晩も花火見物。)
2002.8.5 Hattori
★ 花火好きのHattoriです。光と音の時間差が1秒未満の、至近距離で眺める花火はやはりいいものです。あれこれ雑用で忙殺されるスケジュールのなか、無理やり調整をつけ、混み合う交通機関で汗だくになって花火会場まで出向く、それだけの甲斐はあるというもの。「生」の迫力なのです。
人は自ら直に体験しないことは、なかなか分からないものらしい、半世紀近くも苦心惨憺、生きてくれば、たいていのことは分かっているものだとしても、あらゆることを広く深く、常に実感として「生」のまま把握し続けることは、とてもできません。
だからこそ、何度見ても花火は感動を呼び、「果てしなき流れの果に」は何度読んでも驚きなのでしょうが、一方では分かっているはずの間違い、誤謬を性懲りもなく幾度でも繰り返してしまいます。
認識の普遍化はとても困難、あらゆるノイズやバイアスやミームで、視点や考え方は揺らいでしまいます。繰り返し、繰り返し、「生」を呈示し続けること、それしかないのでしょうか。ディテールとディテールから「それ」を。気が遠くなりそうです。人類のあらゆる問題は天才たちが命を掛けて取り組み、高い認識に達しているのに、まるで何もなかったかのように時は過ぎ行きます。
繰り返し、繰り返し、「それ」を呈示し続ける任務。確固たる「線」への憧れ。「橋」に過ぎないのでしょうが、でも、なんという浪費、浪費。
まだまだ、これからなのでしょう、きっと!
「小松左京」という恒星のまわりを楕円軌道を描いてまわるひとかけらの岩くずは、恒星に照らされて光ることを望んでいるのか、あるいは最接近時に何かを噴射してフライバイしたいのか。まさか花火になるつもりはないにしても。
(花火疲れの真夏の夜のつれづれに、記す)
2002.8.6 Hattori
★ 留守番のHattoriです。お庭番のハットリではありません、我ながら残念ですが。視神経の集まっている「盲点」に向けて手裏剣シュッシュッ。何とかいう忍法に子供の頃あこがれたものですが。
さて、皆様、残暑お見舞い申し上げます。
先日の晩、美しい流れ星を見ました。我ながら「おめでたいなあ」と思うのですが、流れ星とか花火とか蛍とか、どうやら、わたくし、光るものが好きなんです。いつものように庭先で煙草を片手に(何を隠そう、わたくしホタル族)、様々な想念を追いながら夜空を見上げておりましたら、東の空に流れ星。庭先は近くの街路灯の光でSN比はあまり良くないのですが、にもかかわらず、かなりの明るさで、北から南へ向かいほぼ水平に長い軌跡を描いて見事な流れ星。一つ見ると二つ目が見たくなるもの。引き続き見上げておりました。もちろん、煙草も引き続き吸いながら。たぶん、4、5本。でも、それっきり。首が痛くなりました(煙草はうまかった)。夜がほんとうに暗かった時代には、流れ星はもっと日常的だったことでしょう。つまり、「繰り返し、繰り返し」目にしたことでしょう。
前回の投稿で、「繰り返し、繰り返し」ということを書きました。一種の嘆きとして。でも一方では、原始の地球に酸素が加わっていったのも、その後の生命進化の大爆発も、人類のなんやかんやも、この「繰り返し、繰り返しということ」によるもの。そういった宇宙の「実績」をもってして、「前へ」と進む根拠、勇気とすることができます。きっと、いつか、なにかがその閾値を超え、新しい何かが生まれるのでしょう。そういった期待が空しいものではないという「根拠」が。そして、閾値を超える現場に居合わせることがなくても構わないだけの勇気をも。
もちろん、個体としての「繰り返し、繰り返しということ」は「季節がめぐるしあわせ」だって、吸う息と吐く息だってあるわけです。安んじていいのだ、勇気を持って前へと。
煙草を片手に夜空を見上げ、様々な想念を追います。その断片まで。−−流星のはるか彼方、SSを探求するAEに、ひそかに真摯に思いを込めて。
ところで、前回の投稿で、「果てしなき流れの果に」と記しましたが、「果しなき流れの果に」が正式な題名。「果て」ではなく「果」。ごめんなさい。愛読書の題名を書き間違えるなんて、我ながらおっちょこちょい。
数えてみたら今回の投稿で13回目。ちっとも「読者の声」になっていないし、何も語れていやしないのですが、わたくしはしあわせです、感謝の気持ちで投稿しています。小松左京氏のもとでは、いきなり核心へと向かうことができるからです。内的な自由、解放感。かなり一方的で勝手な思い込みであるにせよ、自問自答であるにせよ、その他どうであれ!
読者の皆様、わたくし一読者、一投稿者があえて申し上げることではないのは承知のうえで、おすすめします。一度、ご投稿を。
わたくしは事務局様のご好意に促されて投稿を続け、その後、意外にも留守番役を勝手に喜んで引き受けた形になっていますが、いずれにせよ書きたいことが一杯あり過ぎて、あげく、断片的、自分で納得、意味不明状態になっているだろうとは思っておりますが、これはちょっと止まりません。ごめんなすっておくんなせぇまし。
2002.8.16 Hattori
★ タバコ片手に夜空を見上げるHattoriです。
「果しなき流れの果に」が大阪・近鉄劇場で上演されることを知り、すっ飛んでいったことを、なぜか突然、思い出しました。「小松左京年譜」で確認しましたら1988年の早春のこと、昭和六十三年、昭和最後の年。
OSK日本歌劇団。とても華やかな劇でした。ひそかな愛読書の登場人物の名がどんどん出てくるのが、なんだかうれしいような照れるような不思議にドキドキした気分まで思い出します。
(私事ながら、この年の夏に息子が生まれたから妊娠中の家内を連れて行ったことになるし、仕事だってやたら忙しい時期だったはず、どうやって時間を作ったのだろう? それは思い出せない)
つい先日、NHKでコッポラ監督が「荒野の狼」のことを口にされました。うれしかった。「荒野の狼」、幾度読んだことか! 「果しなき流れの果に」だって幾度読んだことか! 繰り返し、繰り返し。でも、「果しなき流れの果に」も「荒野の狼」も、もったいないから、よほどのことがない限り読めません。
今夜は月夜です。
2002.8.19 Hattori
★ 毎度、どうも、懲りないHattoriです。
いつもとは逆の順序で二冊の本を読了したところです。はじめにスーザン・ブラックモアの「ミーム・マシーンとしての私」、つぎにリチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」という順序で。これまでは素直に出版順のまま読んできましたが、今回はある意図から逆の順序で一気に読み通してみました。「発展」ということが自分ながらに確認できたような気がします。
「利己的な遺伝子」の「1976年版へのまえがき」は次のように始まっています。
「この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい。イマジネーションに訴えるように書かれているからである。けれどこの本は、サイエンス・フィクションではない。それは科学である。」
R・ドーキンスの意図通り、まさに科学をSFのようにわくわくしながら学び考えることができて、うれしくてしかたがありません。「イマジネーションに訴える」どころか、イマジネーションそのものへの喜び、イマジネーションのちからへの驚き、そして、この感動から勇気を得て「発展」があるのだと、生き生きとわかるのです。
小松左京氏は、さらにその先に! 「虚無回廊」の「ミシェル・ジェラン」、もう、これは「生きてて良かった」。そして、待つことがうれしくて十数年。さらにこの先、数年や数十年が何でしょう。 (ミシェル・ジェラン、彼はなぜ立ったまま死んだのか、ふっと分かった気がして、謎のままが氏のやさしさだと肯いたり)
2002.8.24 Hattori
★ 「私は、よく、小松左京氏の夢を見ます」と初投稿以来、久しぶりに小松左京氏が夢に現われてくださいました。小松左京氏の作品名を口にするだけで精一杯だったのに、前の投稿で、小松氏が描かれる人物のことに触れたからかもしれません。「ミシェル・ジェラン」のことです。
前々世紀の哲人が「行路発見者」ということばを使っていますが、小松氏は人類の行路を模索し、発見し、照明を当てる「任務」ばかりか、その「行路」を切り拓き進む人物をも描くことで、科学と精神によってそれは可能であること、この現実の中からだって道筋があること、勇気をもって前へと進むことを示されているのだと思います。
午後の静かな部屋のなか、柔らかな光を受けた書棚を前にして、数冊の書物をひらきながら並んで腰を降ろし、穏やかに親切に科学と精神のある領域について手ほどきをしてくださるのです。こころが安らかに暖かく明朗になるのを感じながら集中して素直に先生の思索を追い、ごく自然に質問も出ます、と、微笑を浮かべながら疑問を察するようにお話しを続けてくださるのです。−−そんな夢を見ました。夢の中の私は、数十年前の生徒だったのかもしれません。
「読者の声」欄を独り占めしているようで申し訳ありません。書かずにいられないのです。他に居場所もないのです。以前の夢は、遠くから横顔を拝見するだけの夢でした。
いつもよりずっと平らかでやさしく調和のとれたような気持ちになれたことに感謝しています。一読者でいられる幸せです。今後も一読者のままでいたいと思います。
2002.8.26 Hattori
★ 過ぎ去れば、どうってこともない話でごめんなさい。
9月2日の夕方に入った、一本の電話が事の始まり。
「今日納入してもらった基板、なんか、おかしいですよ」
「え、そんな馬鹿な」
馬鹿は私。私は電子回路基板の開発・設計を行う小さな会社を経営している身。経営といってもエンジニアのはしくれ兼雑用係兼社長。ある夢を追いかけ数年前に独立、出足は好調、しかし好調すぎて夢から遠ざかるパラドックスに悶々。
お客様である電話の相手と設計担当者と私の三人で「おかしい」状況の把握と、そうなった原因を調べていくうちに、とんでもないチョンボをやらかしたことが確認され愕然。−−理由はわかっている。忙しい設計担当者に無理やり突っ込んだこと、相互信頼があだとなり確認をおろそかにしたこと、そして、お互いいい加減疲れてもいた...。だが、こんなチョンボは、エンジニアのはしくれとして初めての不覚だ!
善後策の検討を終えたときは日付が変わって9月3日の未明。仮眠程度の睡眠後、朝食も抜き、お客様のところへ出向き、お詫び、状況報告、善後策のご提案。お客様は「気にしないで次の仕事で挽回してください」。私は「次の仕事は責任をとる意味で辞退させてください」。お客様は怪訝な様子。善後策の詳細についてさらに詰めて夕方に電話します、と辞去。
オフィスに戻り「理由はどうあれエンジニアのはしくれとして初めての不覚」と幾度も落胆しオフィスの床に寝転がる。自分で自分が許せない。「会社もおしまい、エンジニアとしてもおしまい」(嘆くわ、嘆くわ、一人で内心大騒ぎ)。むくっと起きては、また、寝転がる。また起き上がり、善後策あれこれ。気が付けば昼食も忘れて(タバコを吸うのは忘れず)、いつしか約束の夕方。
お客様に電話し、具体策を提案、協議、判断を仰ぐ。お客様「そんなに気にしないでください」。でも、そんなわけにはいかない。ご判断に基づき猛然と関係者、外注先に指示、電話をしまくる。どんどん返事も返ってくる。見通しがつき始める。お客様に報告。お客様「いいですねぇ。次も頼みます」。外注先から最終確認の電話。「よし、これでよし」。オフィスの外に出ると夕陽。タバコを吸いながら、ふと思う。いま9月3日の夕方。「ああ、そうか、24時間...」と。
数分後、偶然にも妻から電話。思わずこの24時間の出来事を話す。「エンジニアとして初めての大チョンボ、実は」などと、ぽつり、ぽつり。妻「今年はなんだかみんな疲れているみたい」と。なんという洞察。そう、そうなんだ、なんだか「特別」に!
こんなつまらない話を書いた理由は二つあります。ひとつは「読書の声」欄に頻繁に投稿するHattoriという奴は何者だ、ということを、その一端でも述べておくべきと感じていたからであります。もうひとつの理由は、アンジェラです。「虚無回廊」のアンジェラです。妻の一言を通し女性の不思議な力を感じ、驚愕し、まっさきに浮かんだのが「虚無回廊」のアンジェラなのです。アンジェラの「意味」が、少し分かりかけた感じなのです。
過酷な24時間を終え、夕陽も沈み、いつもの自分に戻りタバコ片手に夜空を見上げ「虚無回廊」を想います。そして、小松左京氏の読者であることに感謝を捧げるのです。
こんな事が起きなかったら「虚数」について書いてみようと、ひそかに思っていたのですが。イマジナリーナンバー。
2002.9.3 Hattori
★ 「読者の声」投稿の常連だった小長谷さんは、そろそろ帰ってくるのかなぁ。自称「留守番役」の小生もひと月近く留守していました。その間に、どなたかの投稿があったら、いいなあと思っていましたが、ないようなので、小生、またもや懲りずに投稿しちゃいます。
小松左京ファンの一人としては、やはり書いておきたいニュースがあったからです。新たに発見された小惑星に「komatsusakyo」と命名、9月26日の朝日新聞の記事。うれしいニュースです。でも、少し複雑な気分。「ということは、今までなかったの」という意外な感じ。それに「氏は小惑星には似合わない、やはり、氏は巨星」。とはいえ、タバコ片手に夜空を見上げる小生としては、この夜空のどこかに「komatsusakyo」という名の星があるのだということは、大きな喜びであります。祝「komatsusakyo」。
その星空も、ここ数日は秋雨と台風で見ることができません。その代わりか、昨日の夕方には何年ぶりかで、実に見事な虹を見ました。レインボーです。東の空に、ほぼ完璧な半円を描いてきれいな虹が掛かりました。家族にも声を掛けたり、カメラで写真を撮ったり、大騒ぎしました。
ここのところ書斎の模様替えをしているのですが、いろいろなものが出てくる、出てくる、物持ちがいいなぁ、われながら。そのひとつ、1988年、OSK日本歌劇団による公演「果しなき流れの果に」のパンフレットも出てきました。パンフレットには若々しくやさしげな氏の写真が、「この作品は以前に、映画化の話もあったのですが、...」といった文と共に載っています。パンフレットには当時のチラシも挟まっていました。まぶたを閉じた女性が両手で地球を抱くイラストが描かれています。その女性が「アンジェラE」に思えてなりません。
「虚無回廊」既刊三巻、読み返しました。幾度読んでもイマジネーションの連鎖が駆け巡ります。
2002.10.1 Hattori
★ 読み逃している小松左京氏の作品はないだろうか、ちょっと調べてみようという気になり、たまたま、ここ数ヶ月、書斎の整理をしているところでもあり、氏の本の一覧を作ってみようと思い立ちました。長くなりますので、本日の投稿では角川文庫版だけを発行日順に並べてみました。
「青い宇宙の冒険」 角川文庫 昭和51年12月20日 再版
「継ぐのは誰か?」 角川文庫 昭和52年9月20日 再版
「牙の時代」 角川文庫 昭和52年9月20日 5版
「明日泥棒」 角川文庫 昭和53年2月20日 11版
「復活の日」 角川文庫 昭和53年3月30日 5版
「見知らぬ明日」 角川文庫 昭和53年8月10日 11版
「最後の隠密」 角川文庫 昭和53年9月20日 9版
「旅する女」 角川文庫 昭和54年4月20日 初版
「怨霊の国」 角川文庫 昭和54年7月30日 4版
「シナリオ 復活の日」 角川文庫 昭和55年3月31日 初版
「ウインク」 角川文庫 昭和55年5月10日 16版
「こちらニッポン・・・(上)」 角川文庫 昭和55年5月15日 初版
「こちらニッポン・・・(下)」 角川文庫 昭和55年5月15日 初版
「明日の明日の夢の果て」 角川文庫 昭和55年5月20日 初版
「三本腕の男」 角川文庫 昭和55年5月20日 初版
「青ひげと鬼」 角川文庫 昭和55年5月20日 初版
「ゴエモンのニッポン日記」 角川文庫 昭和55年6月20日 12版
「ゴルディアスの結び目」 角川文庫 昭和55年7月10日 初版
「地には平和を」 角川文庫 昭和56年5月25日 初版
「地には平和を」 角川文庫 昭和56年5月25日 初版
「氷の下の暗い顔」 角川文庫 昭和57年12月20日 再版
なぜか「地には平和を」は、二冊あります。
いつ頃に読んだのか、その手掛かりが欲しくて発行日も調べたのですが、調べた結果に実感はわきません。幾度も幾度も、繰り返し読んできたからだと思います。次の投稿では、角川文庫版以外を書き並べてみたいと思います。
2002.10.31 Hattori
★ 文庫版だけで57冊でした。本日の投稿では、単行本を書き並べてみます。
「21世紀学事始」 鎌倉書房 昭和53年7月25日 初版
「地球社会学の構想」 PHP研究所 昭和54年9月30日 第1刷
「華やかな兵器」 文芸春秋 昭和55年2月15日 第1刷
「氷の下の暗い顔」 角川書店 昭和55年7月31日 初版
「はみだし生物学」 平凡社 1980年10月3日 初版第3刷
「地球文明人へのメッセージ」 佼成出版社 1981年4月16日 初版第1刷
「宇宙から愛をこめて」 文化出版局 昭和56年12月20日 第1刷
さて、ここまで書名を書き並べて来て、いよいよ、「虚無回廊」です。
「虚無回廊T」 徳間書店 1987年11月30日 第1刷
「虚無回廊U」 徳間書店 1987年11月30日 第1刷
「虚無回廊V」 角川春樹事務所 2000年7月8日 第1刷
前回の投稿でも書きましたが、こうして書名を書き写していると、実に感慨深いものがあります。小松左京氏への感謝の念で一杯になります。
次の投稿では、レコードやレーザーディスク、その他を書き並べてみたいと思います。
2002.11.5 Hattori
★ 引き続き、文庫版を書き並べてみます。
「蟻の園」 ハヤカワ文庫 昭和49年9月15日 発行
「鏡の中の世界」 ハヤカワ文庫 昭和49年11月30日 3刷
「果しなき流れの果に」 ハヤカワ文庫 昭和50年4月30日 6刷
「結晶星団」 ハヤカワ文庫 昭和50年5月15日 発行
「神への長い道」 ハヤカワ文庫 昭和51年11月15日 2刷
「五月の晴れた日に」 ハヤカワ文庫 昭和52年12月31日 発行
「偉大なる存在」 ハヤカワ文庫 昭和53年2月15日 発行
「エスパイ」 ハヤカワ文庫 昭和54年3月15日 14刷
「日本沈没(上)」 文春文庫 1978年9月25日 第1刷
「日本沈没(下)」 文春文庫 1978年9月25日 第1刷
「題未定」 文春文庫 1980年3月25日 第1刷
「虚空の足音」 文春文庫 1980年11月25日 第1刷
「アメリカの壁」 文春文庫 1982年5月25日 第1刷
「骨」 集英社文庫 昭和52年6月30日 第1刷
「一生に一度の月」 集英社文庫 昭和54年5月25日 第1刷
「まぼろしの二十一世紀」 集英社文庫 昭和55年1月30日 第2刷
「猫の首」 集英社文庫 昭和55年3月25日 第1刷
「一宇宙人の見た太平洋戦争」 集英社文庫 昭和56年1月25日 第1刷
「小松左京のSFセミナー」 集英社文庫 昭和57年6月25日 第1刷
「読む楽しみ語る楽しみ」 集英社文庫 昭和60年2月25日 第1刷
「飢えなかった男」 徳間文庫 1980年10月31日 初刷
「さよならジュピター(上)」 徳間文庫 1983年5月15日 初刷
「さよならジュピター(下)」 徳間文庫 1983年6月30日 3刷
「湖畔の女」 徳間文庫 1983年8月15日 初刷
「シナリオ版 さよならジュピター」 徳間文庫 1984年1月15日 初刷
「虚無回廊T」 徳間文庫 1991年11月15日 初刷
「虚無回廊U」 徳間文庫 1991年11月15日 初刷
「さらば幽霊」 講談社文庫 昭和52年8月10日 第9刷
「やぶれかぶれ青春記」 旺文社文庫 1980年 重版
「夜が明けたら」 ケイブンシャ文庫 昭和60年12月15日 第1刷
「わたしの大阪」 中公文庫 1993年12月10日 発行
「地球になった男」 新潮文庫 昭和49年9月30日 7刷
「アダムの裔」 新潮文庫 昭和52年2月15日 8刷
「春の軍隊」 新潮文庫 昭和54年7月5日 3刷
「おしゃべりな訪問者」 新潮文庫 昭和55年8月25日 発行
「空から墜ちてきた歴史」 新潮文庫 昭和60年10月15日 4刷
書名を書き写していると感慨深いものがあります。この大切な本は、書斎の本棚の「一番の場所」に、星新一とアーサー・C・クラークと一緒に並んでいます。
次の投稿では、文庫版以外を書き並べてみたいと思います。
2002.10.31 Hattori
★ 生きております。Hattoriです。続けます。
「宇宙に逝く」 ビクター音楽産業 1978年(LPレコード)
「復活の日」 日本コロムビア 1980年(LPレコード)
「さよならジュピター」 東宝 1984年(レーザーディスク)
「復活の日」 角川書店 2002年(DVD)
20年の間、頭の中で再上映し続けていた映画「復活の日」が、DVDによって、この目とこの耳に鮮やかによみがえる、そんな時代になったのは、妙に不思議なしあわせです。
文庫のほうは、幾度も読み返す箇所があります。第四章「夏」の5.八月第二週、ユージン・スミルノフ教授の講義。苦しくなると、読み返します。ありがとう、左京氏。
「SFアドベンチャー・新春特大号」 徳間書店 昭和55年
「おもろ放談」 角川文庫 昭和57年7月30日 4版
この二冊は大事な二冊です。星新一氏と小松左京氏と筒井康隆氏のお三人が「SF仲間のしょうもないところ」を目一杯発揮していて、うれしくなります。
「地球村の彼方」 同文書院インターナショナル 1993年3月14日 第1刷
これは、アーサー・C・クラーク著、小松左京・監修です。
「紀元3000年へ挑む科学・技術・人・知性」 東京書籍 1999年9月13日 第1刷
「首都消失」が見つかりません。どこかに消失したままです。不思議です。
先月から再びR・ドーキンスに没入しております。「虹の解体」で再刺激され、「ブラインド・ウォッチメイカー」から「延長された表現型」へと読み返し、小松左京氏のミームとの共振を覚え、ひょっとすると、あの虚無回廊は、宇宙の知性体の「延長された表現型」なのか、などと空想するのであります...。
2002.12.11 Hattori
★ Hattoriさん、お久しぶり。
ビクター音楽産業から「宇宙に逝く」のCD、出してもらえそうです。
星新一さん、筒井康隆さん、ともに三人でのシリーズで復刻しCDにしてくれるとのこと。
Hattoriさんのご提案が通ったわけです。でも、まだ時期は未定。来年春くらいでしょうか。
2002.12.11 事務局
★ 事務局様、お知らせいただき、本当にありがとうございます。あたまがぼーとします。星新一氏も宇宙のどこかでお喜びと思います。「発売日は4月1日にしよう」という声が、聞こえてきそうです。
CD化は事務局様のお力に加え、「田中さん=筒井さん」効果もあったのかも知れませんね。小生の提案は、たまたまのタイミングできっかけ作りにはなったのでしょうが、それとて、とても光栄です。一読者の声が、なんらかの力になるなんて。
今度こそ、3枚とも買っちゃいますからね、ぜったい。「宇宙に逝く」の表紙には、是非、「スタジオぬえ」の、あのイラストを使って欲しいなぁ、と思います。おぉ、ジョー・タカハシ中尉が戻って来る!
カミオカンデの光電子増倍管修復、小惑星「komatsusakyo」、ノーベル賞二つ、筒井康隆氏の紫綬褒章、「宇宙に逝く」のCD化、生きてて良かった、あたまがぼーとします。
「ぼー」が治ったら、また、投稿させていただきます。
2002.12.12 Hattori