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《2005.1.7より》

★はじめまして。ふとしたきっかけで『果しなき流れの果に』、『ゴルディアスの結び目』を入手し、読ませていただきました。もう何年も前、SFをたくさん読んでいた頃に、SFマガジンのオールタイムベストなどで上位に挙げられていたので読もうと思いつつ機を逸し、その後もいつかは読みたいと思っていた作品でした。
 どんな作品であるか、何を扱ったものであるかもろくに知らないまま読み始めましたが、宇宙の広大さ、時間の悠久さ、意識と存在の不思議さに正面から取り組まれている部分を堪能しました。「虚無回廊」は何となくアンテナにひっかかっていたのですが、その前に「神への長い道」、「継ぐのは誰か?」を読んでみようと思いました。「虚無回廊」にたどり着くのはもう少し先ですが、執筆が進まれることを願っています。
   2005.2.19 秋也

★ 阿呆のHattoriです。日本を脱出して異国の地の果てで野垂れ死にしたい、そんな妄想で慰めを得ようと、やけくそで投稿した文が掲載された。居場所を失った私。ここに居てもいいですか。事務局様。<−−もちろん、大歓迎です。(事務局)

 昨年9月、仙台の伊藤さんが投稿のなかで『地球連邦』、『哲人政治』、『SF作家政治』と書いていらっしゃいましたが、私は『小松左京王国』を夢想しています。小松左京氏が王様で、王国の一角には星新一氏のお墓があります。法律も経済も、テレビも新聞も、宗教も「学校」も、貨幣も自動車もない、静かでのどかな王国です。民は質素な住居で簡素な生活をおくります。冬は寒く夏は暑いし、食うための労働は楽ではなく、怪我や病気、自然災害への備えも僅かだけれど、民は皆が幸せです。王様の住居の近くには殿堂とも言うべき図書館があって、選りすぐった数学、物理学、進化論の書物、そしてもちろんSF小説の数々が納められています。私は、家来の一人として無心に働きます。働くことは本来楽しいことゆえ、働くこと自体が報酬。星新一氏が「人類最悪の発明は貨幣」というような意味のことを書いていらっしゃいますが、この王国には貨幣も経済もないのです。
 仙台の伊藤さんは「そのような理想は粉々に消し飛んでしまいました」と書かれています。私は「日本を脱出して異国の地の果てで野垂れ死にしたい」と嘆きます。嘆きつつも、いまだに夢想するのです、50才にもなって。
 「世界は改良するためにあるのではない」とはヘッセの言葉。戦争は絶えることなく続いてきましたし、これからもそうでしょう。困窮する人々は捨て置かれることでしょう。自らは安全・安心の側に身を置きながら、まやかしの希望を唱える人々の言葉は「百害あって一利」なし。タバコと同じ。緩慢自殺剤。
 もし希望があるとすれば、R・ドーキンスの言う意味での「科学」が切り拓いてき、切り拓き続けている、科学が拓いてみせるところの「科学の詩(うた)」です。似非科学にごまかされてはならない、毒されてはならない。『小松左京王国』には強力な解毒剤、SFがある。ニーチェの思い描いた強壮な空気が、この王国にはある。
 「地球防衛軍」が結成されたら、ぜひ、志願したい。
   2005.1.15 Hattori

★ もう一年くらいテレビは見ていない。昨年の中頃までは、車で移動中NHKのAM放送を聞いていたこともあったが、ある日突然、カーラジオのスイッチを押そうとして極度の不快感に襲われ、それ以来ラジオもやめた。せいぜい、幹線沿いのラーメン屋さんで、ラーメンをがつがつ食いながら、ヨレヨレの汚れた新聞に目を通すくらいだ。世の中がどうなっているのか、もう、どうだっていいし、知りたくもない。
 昨日、私の狭い行動範囲のなか、唯一残された喫煙場所、あるスーパーマーケットの一角で、缶コーヒーと灰皿を前にタバコを吸っていたら、備え付けのテレビに自然と目がいった。音声は、店内放送にかき消されて捉えられなかったが、どうやら、青色発光ダイオードのニュース。
 そして、本日、中村修二氏が「和解に追い込まれた」とのニュースに接した。まさに「怒り心頭」だ。
 尊敬する立派な方々が妙な言い掛かりをつけられては一線から退かれていく姿に、ひそかに心を痛めていたここ数年...。形は違えど、またもやだ!
 ますます酷くなるばかりの日本だけれど、ほんとうに素晴らしい方々もいらっしゃるんだよ、闘っていらっしゃるんだよ、望みはあるんだよ。自分に言い聞かせるように、そんな話を息子にしたのは、ああ、いつのことだったか。
 阪神・淡路大震災のときの政府の対応を見て、「ああ、やはり、そうか」と思ったことだが、日本の司法も、「ああ、やはり、そうか」である。
 もう、日本脱出。
 数年前の新聞のコラムで、信頼し尊敬するある経済学者の方が「もう、日本を脱出するしかない」と結ばれていた。いま、その方は海外に在住だ。その方や中村氏のような力も何もない私に、海外で生活するなんて、どだい無理、ろくな死に方もできないだろうが、もう日本以外ならどこだっていい、地の果て、結構だ。
 数日前の投稿、八・二で掲載されないだろうな、事務局様にご迷惑をお掛けするだけ、そう思っていたら、ちゃんと掲載された。感謝。でも、今回は無理だろうな。それでも構いませんよ、書くだけ書いて、送信ボタンを押す。
 日本を脱出して異国の地の果てで野垂れ死にする。何の見通しさえ持てないより、そう考える方が、よほど、ほっとする。いっそ、阿呆になりたい。
 2005.1.12 Hattori

★新年おめでとうございます。
 昨春以来の久しぶりの投稿、失礼いたします。今年もよろしくお願いします。
 昨年の七月頃から一日も、一時間も休むことができないまま、本日ただいままに至りました。年を越したのに気付いたのも元旦の午前三時頃でした。ついに一通の年賀状も書けず年を越したので、この投稿が、小生にとって唯一の年賀状です。
 無休とはいえ、缶コーヒー片手にタバコを吸うのは欠かさず(もちろん)です。クスリに頼った不安な眠りを除けば、タバコを吸っている時間だけが「救い」。そんな救いのひと時には思い知らずに小松左京氏のことを考え、師に対する勝手な片思いは、頭の中で「読者の声」欄への投稿という形をとっていることに、はっと気付いて、ひとり、苦笑いです。
 それにしても、タバコの吸える場所が、あまりにも少ない。どんどん減って行く。ついこの間まで喫煙所だった場所から、ある日、吸殻入れが、そっと撤去されている。なんとも、悲しく切ない。居場所を失ったタダの中年男の、ほんのひと時の救いの場所さえ奪う(そろそろ本文に入ります)のかと。半年先の見通しさえ持てない不安のなか、親や妻子、従業員を扶養し、重い税や重い重い社会保険料を担い、責任や義務や義理で縛られ、昼飯を天ぷらうどんか素うどんかで密かに迷い、団塊の世代は立ちはだかり、老人たちからはいつまでも子供扱いされ、新たな世代からは取り違えをされ、女性への恐怖心は増すばかり...。
 あぁ、腹いっぱい食って気遣いなしにタバコを吸ってぐっすり眠りたい。
 ひょっとしたら、またぞろ、幼年期の貧しく虐げられた、あの頃の、表に出せない怒りや憎しみに苛まれる時代の再来か。「早く老人になりたい」、子供の頃からそう思い続けて、そして、もう少し踏ん張れば老人という地点まで来たのに! まるでゼノンのパラドックスかのように、いつまでたっても...。
 新年早々、このような駄文、投稿欄を汚すものかも知れませんが、もとより掲載のご判断は事務局様がされること。ここからさえも、逃げ出さねばならぬとすれば、小生の居場所はどこに?
 孤独へ、森へ、砂漠へ。21世紀において、それらは懐かしい夢と化してしまったのではないか。
 相対論、量子論、進化論、SF! やはり、ここか。認識の喜びは何ものにも代えがたい。だが、「認識は現実を変えることはできない」。
 絵に描いたような「正直者が馬鹿を見る」生き方しかできない私なのに、「外形的」には普通の(いわゆる人並みの)生活を送って来ることができた、そして、まだ生きている。この現実には、心底、驚く。私は世の中に対して怒りや憎しみ以外の感情を持つことはできない。ひとりひとりの個人、また人類に対してではなく、日本の「世間」に対してだ。真のSF読者なら、とっくにご承知の「撃つべきは彼らの神だ」という意味において、言っているに過ぎない(ええぃ! なぜ弁明などしようとするか、私は...)。
 ある時、出先でなにげなく手にとった雑誌に、著名な方のある見解が紹介されていた。帰宅後メモしておいたが、だいたい、次のような意味の表明だった。
   西欧社会のおける、正義やヒューマニズムに裏打ちされた「社会」という    ものは、日本にはない。あるのは「世間」ばかりだ。
 もっと美しい文だったと思います。幾度も読み返しました。断言的な調子も気に入りました。蛇足ながら、「世間」を「村」と言い換えてもいいように思う。そんな「世間」と縁を切ろうともがいて来たが、切っても切れない強固な仕組みがある。この21世紀において、自給自足、狩猟採集生活は「許されない」。あくまで経済活動の中へ、経済活動を通して「世間」とのかかわりの中へと。そうしなければ生命の維持(食う、寝る)さえできない。
 いったい、これはどうしたことか。

 『教養』のなかで、小松左京氏が、「お米一握りと、たたみ一畳」というような意味の良き言慣わしを引き合いに出され、「いい言葉じゃないか」とおっしゃっています(まったく同感、読んだときは涙が出ました)が、今の日本では、それさえ「許されない」こと、不可能なことと思えます。「生き抜け!」それは承知。だが、ここまで、すなわち、ゼノンのパラドックスの地点まできた今となっては、不実に生きるより飢える方を選ぶ、それが私の意志、飢えは苦しいよ、知っているよ、そんなこと、その苦しみが、これまで舐めてきた苦悩(あるいは、認識の喜び)に匹敵するのかどうか怪しいものだ。
 人道主義、けっこうだ。民主主義、けっこうだ。だが、人間中心主義は、これはおかしい。「相対論、量子論、進化論、SF」の、ものの見方、考え方からすれば、あまりにも狭すぎて窮屈だ。要するに「レンジ」の問題なのだ。これまで、多くの「美しい嘘」や「半真理」でごまかされて来たように思えて仕方がない。かまわんでくれ。放っておいてくれ。

 今回のこの投稿で、自分自身を少し解放できたようで、少し気が晴れます。抑制は美徳なんかでは「ない」と思います。どなたか海外の作家の方が、  「正気を保つために、吐き出す必要がある」と書いていらっしゃいましたが、私も、自身の正気を保つために書きました。小松左京氏の読者なら、以上の走り書きの意を汲んでくださると信じ、困窮のなか苦しい刻一刻を過ごしている方がいらっしゃるとすれば、少しでもの慰めとなればと思い...。
 いや、もう、はっきり言います。このような時代のなかで正気を保とうとする人は、苦しくないわけはないのだ。能天気でいられるか。
  (2005.1.7 Hattori)