株式会社イオの歴史
   

昭和56年
(1981)

 

8月小松左京を筆頭株主に資本金3000万円で(株)イオ設立
東京都千代田区紀尾井町エレクトロオフィスに連絡事務所を開設し
創業の準備に入る
 

昭和57年
(1982)








 

2月千代田区平河町2−12ー2 藤森ビルに営業所を移転し、
映画「さよならジュピター」のプレプロダクシヨンを始める
4月「さよならジュピター」上下サンケイ出版より発行

10月資本金を3000万円より4000万円に増資し東宝・電通等に加え
(株)フジテレビジョンが新株主として加わり、鹿内春雄副社長(当時
の取締役就任を得る

11月日本で最初のコンピュータ・グラフイックスの国際会議
「NICOGRAPH82」開催に尽力する。
 

昭和58年
(1983)









 

4月東宝と映画「さよならジュピター」製作契約成立 クランクイン

8月伊谷専務、藤原常務の辞任に伴い、新取締役としてソニーPCL(株)社長川崎三郎氏の就任を得る。

10月映画「さよならジュピター」完成 納品
11月千代田区平河町2−3−18へ移転し、その後「さよならジュピー」関係の出版企画・ビデオ企画・コンピュータゲーム監修などに携る。
12月ビデオ「Making of さよならジュピター」(自主製作版)製作
 「首都消失」新聞連載開始。(84/12まで)
 

昭和59年
(1984)









昭和60年
(1985)










昭和61年
(1986)



 

1月「小松左京の世界展」を西武池袋店にて開催

3月映画「さよならジュピター」公開
 筑波博'85のパビリオン企画・構成をはじめイベント企画などが増える
(講談社ブレインパビリオン・三菱未来館・電事連電力館)

8月種子島におけるGMS−3(ひまわり3号)の打ち上げをビデオ収録し編集(自主製作)。
12月日本未来学会「居住環境の未来一陸・海・空」開催


3月「首都消失」徳間書店より発行 第6回日本SF大賞受賞

5月関西テレビ30周年記念海外取材番組(〜62年まで黄河・ボルガ・ミシシッピー)の構成、取材、出演
 8月まで「黄河」取材
 大阪NTT情報文化センタ基本構想作成

8月日本未来学会「住みかた革命−世界都市の構築」開催

11月「黄河」サンケイ新聞連載開始(4月まで)


1月「虚無回廊」SFアドベンチャ−に連載開始(87/3中断)

6月〜8月まで「ボルガ」取材
8月「黄河」徳間書店より発行
11月「ボルガ」サンケイ新聞連載開始(4月まで)
 

昭和62年
(1987)









 

1月 徳間大映製作映画「首都消失」公開
3月 「時也空地球道行」週刊読売連載開始(11月まで)

7月 8月まで「ミシシッピー」取材
8月 「ボルガ大紀行」徳間書店より発行

11月EXPO’90花博の国際シンポジウム総合プロデューサーとして、
開催年まで全4回のシンポジウムの企画・構成を担当
第一回は「花とひと」
「虚無回廊」T・U徳間書店より発行
「ミシシッピー」サンケイ新聞に連載開始(翌3月紙面改変のため中断)
 

昭和63年
(1988)





 

花博の総合プロデューサーとして、全体の広報・イベントを担当
4月「時也空地球道行」読売新聞社より発行.
8月「おじいさんの木を探そう」探検隊結成

9月 第一回花端会議を有楽町マリオンで開催.
 以後全国各地で '90年までに6回開催.
12月 第二回花博国際シンポジウム「みどりと都市」.
 

平成元年
(1989)






 

花博国際陳列館およびメイン催事ホールのために日米英協力映面「ガーデン」プロデュース

4月 花博一年前大阪東京二元記者会見発表

9月花博のマスコツト人形「花ずきんちゃん」をソ連の宇宙ステーション「ミール」に乗せる
11月第三回花博国際シンポジウム「バイオと未来」
 

平成2年
(1990)










 

4月「世界巨木ツアー」花博会場より生中継.
5月花博会場においてランドスケープオペラ「ガイア」製作・総指揮
ハイビジョンにて収録.
6月「グレートツリ−フェスティバル」世界巨木会議開催

9月 電通・東宝・ソニー・ソニーPCL・フジTV・ウシオ電機・田中友幸氏の株式を償却減資し、資本金2100万円とする
それにともない、取締役を変更

  第四回国際花博シンポジウム「植物と地球」で四年間の締めくくりと して、「提言」を発表
10月第1回「大阪咲かそ」シンポジウム開催
 

平成3年
(1991)




 

1月小松左京還暦記念シンポジウムin白浜「宇宙・生命・知性を考える」開催.この成果は、講談社より「宇宙・生命・知任の最前線」とし出版される

11月「虚無回廊」連載再開(SFアドベンチャー12月号より翌年秋季号までで、再度中断)
 

 平成4年
(1992)









 

3月「地球にやさしい木材利用」シシポジウム第1回「森の再発見・木の文化を考える」開催.

10月小松左京の株式を乙部順子に譲渡し、同時に償却減資して、資本金を1150万円とする
代表取締役変更とともに、営業所を三番町に移転。
 新取締役として高松繁子、新任監査役として有田謙就任。小松左京は相談役となる。

11月 20年ぶりの書き下ろし「鳥と人」をネスコより出版。
イオ10周年パーティ開催。
 

平成5年
(1993)







 

3月「地球にやさしい木材利用」第二回シンポジウム「新素材としての木材」開催

ラジオ大阪主催による、テムズ川・セーヌ川・ミシシッピー川そして淀川の河川管理、河川文化を話し合う「国際リバーフォーラム」取材・プロデュース

6月 カナダ、ドラムヘラーへ、集英社「BART」と東京テレビのために恐竜取材
 

平成6年
(1994)
 

1月日経新聞元旦別刷りに、富士通と共同研究してきた携帯端末による電子本「View Art」で自作を読む小松左京写真が掲載。

8月エディンバラ・フェスティバル、フリンジ部門に西宮小夜子演ずる一人歌舞伎「女殺油地獄」をもって参加
 

平成7年
(1995)






 

1月17日阪神大震災に小松左京は箕面の自宅で遭遇

4月 毎日新聞に「大震災’95」連載開始(’96年3月まで)

 6月ロシアのペルミ国際演劇フェスティバルに西宮小夜子招待参加
モスクワ、サンクトペテルブルクでも一人歌舞伎「女殺油地獄」公演
ロデュース(国際交流基金派遣助成)
9月ジャストシステムより「小松左京コレクション」第1巻刊行
 

平成8年
(1996)



 

二金会発足。関西の若手学者を中心に千年単位で文明を考える「フロンティア3000研究会」のもとになる会合。毎月第二金曜日に定例会を持つ。
3月 インターネットでテキストデータを販売する日本最初の電子書店「パピレス」に作品提供。
4月ジャストシステム「小松左京コレクション」全5巻刊行記念パーティ
このとき星新一氏倒れるの報に接す。以後、星氏は二年間昏睡状態。
 

平成9年
(1997)




 

3月営業所を三番町から九段北4-3-32に移転し、電子出版事業の具体的準備と実現のための体制づくりにかかる
 二金会がフロンティア3000研究会に発展

12月ハルキ文庫から「果しなき流れの果に」発行。以後、長編作品
順次発行。短編集も8冊発行。
 

平成10年
(1998)

 

1月14日 星新一氏葬儀青山斎場にて葬儀委員長つとめる
5月畏友三浦浩氏追悼座談会(翌年オンデマンド印刷で冊子発行)
6月小松左京白内障手術
 

平成11年
(1999)





 

4月より週刊読売に「威風堂々うかれ昭和史」連載開始。戦前編を
12月で終える。

 9月国際交流基金専門家派遣事業としてロシア(ハバロフスク・ウラ
オストック・モスクワ)にて歌舞伎デモンストレーションとワークショ
プ開催(西宮小夜子一座)
10月、「小松左京賞」の募集発表。
 

平成12年
(2000)
 

1月「小松左京全集」オンデマンド版発売。
4月「威風堂々うかれ昭和史」戦後編、新装のYomiuri Weeklyに連載開始
9月電子書店パブリに作品提供。 
平成13年
(2001)
1月小松左京の古希を記念して『小松左京マガジン』創刊
2月21日小松左京の古希、田中光二の還暦を祝う会九段会館にて開催。小松が直前に転んで東京に来られず、箕面の自宅と会場を家庭用テレビ電話でつないだ異色のパーティとなった。

3月「威風堂々うかれ昭和史」中央公論新社より発行。
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