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  平成18年(2006年)文月(7月)28日

 四金会の前に、甥の照昌に「ラクゴロク」の取材を受けた。朝日新聞のWEBサイトに載るらしい。落語の話をしてくれとのこと。米朝師匠や枝雀ちゃん、SF小説と落語のことなどを話した。
四金会には、梅棹さんも来て、賑やかだった。梅棹さんの不死鳥のようなバイタリティには、おどろく。

  平成18年(2006年)ふみづき(7月)22日

 今日は、『日経エンタテイメント』の飯島愛ちゃんとの対談コラム、映画「日本沈没」について聞きたいというので、楽しみにして待っていたのだが、愛ちゃんが体調を壊して急に来られなくなってしまい、流れてしまった。大阪に帰るので、ぎりぎりの時間まで待っていたのだが、残念でした。あらためて大阪でしきり直すことになった。天候が不順だからね。身体を大切にね。
 それにしても、ミッキー・カーチスが愛ちゃんと同じ渡辺・プロの所属になって、マネージャがミッキーからの話を伝えてくれたんだが、33年前にあったときに、既に私が「日本沈没」第3部のことを言っていたらしい。本人はすっかり忘れていたが、そんなことがあったのかね。こんなところで、懐かしい名前が出てくるとは、おもしろいもんだ。

  平成18年(2006年)文月(7月)21日

 『SF魂』について、女性自身のインタビューを受ける。女性誌の取材は久しぶりだ。その後、澤田君の「自作を語る」のインタビューを受けて、3金会へ。
久しぶりに来た祥子ちゃん夫妻、なんと、12月に出産予定とのこと。おめでたいことだ。少子高齢化の時代、みんなで貴重なる子供を作ってくれてありがとう!、と祝う。名前を考えてくれ、と頼まれた。男か女かわからないので、漢字を一つ選んでくれれば、あとはアレンジするとのことだ。さぁて、大変だ。

  平成18年(2006年)ふみづき(7月)20日

 新宿のトークライブハウス、ロフト・プラスワンで、谷甲州と「日本沈没について語る」に出演した。聞き手は、宇宙作家クラブの笹本君と松浦君。読売新聞の取材をイオで受けてからなので、レンチャンという事だ。夜7時からで、9時過ぎには、樋口監督も舞台に上がり、入れ替わりに私はトイレのために下に降りて、上と下でかけ合いながら、10時頃までいた。その後が大変。7月から道路交通法が変わって、車が近くまで着けなくなってしまったのだ。コマ劇場の前から靖国通りまで歩かされた。樋口監督もついてきてくれて、途中休み休み、それでも歩けたのはよかった。

  平成18年(2006年)文月(7月)8日

 第45回日本SF大会松島「ずんこん」に参加するため、12時8分の「MAXやまびこ」で仙台まで行く。仙台から松島までは車で1時間くらいとのこと。東京駅の東北新幹線まではちょっと距離があるので車椅子を頼むと、丸の内の車椅子専用待合室に連れて行かれた。プラットフォームだと暑いし待合室で座れるとも限らないので、ここならトイレもあり涼しいし、直前に迎えに来ますから、とのこと。東京駅はあまりにも巨大になってしまったので、途中でへたってしまう人も多いらしい。駅の職員は車椅子の要員も多く対応もなれている。高齢化が進むと、もっと需要は増えていくだろう。
 4時には松島のホテル、「壮観」についた。まさに壮観なホテルである。ここいら一帯は、大きな旅館地帯。明日の樋口監督との対談会場にもなる公民館は、道を挟んで向かい側にある。バンちゃんの夫の藪中君が、車椅子を用意して待っていてくれた。

  平成18年(2006年)ふみづき(7月)7日

 七夕の日だが、講談社児童局の新しい担当者とタイガー石塚など、男ばかりが来て色気がなかった。夜、ヒロミちゃんの所に行こうかとも思ったが、やめた。ミッキーも来れないと言うし、淋しいなぁと思っていたら、カッチャンから電話が入って来てくれた。明日からのSF大会「ずんこん」には行かないのと、日曜日夜に付き合ってくれるはずだったが、親が来ることになったのでダメになったから、とのこと。嬉しいなぁ。

  平成18年(2006年)文月(7月)6日

 東京ビッグサイトで東京国際ブックフェアが今日から開催される。そのコニカミノルタビジネスソリューションズのブースで、私の全集をオンデマンド印刷のサンプルとして展示し、城西国際大学出版会から出版されるという発表をするというので、顔を出した。200インチのプロジェクターにリメイク版の「日本沈没」のデモンストレーションビデオが流れ、前に並べた椅子には、20名くらいの人が座っている。賑やかなことだ。かっこいいコンパニオンちゃんが、「小松先生がいらっしゃいました。今度の映画のリメイクのことと全集の出版について、さっそくお話を伺いましょう」と、マイクをふってきた。私は、「日本沈没」の事について延々と話してやった。途中でカワイコちゃんが時間になったといって話を切ってきたので、話を打ち切り、城西国際大学の学生と写真を撮って、すぐに会場を後にした。毎日新聞文化部の内藤ちゃんと、コマ研の永瀬ちゃんも一緒に車で事務所に帰った。
 山浦ちゃんも合流し、この夜は、女性ばかりに囲まれて幸せだった。

  平成18年(2006年)ふみづき(7月)2日

 11時に、FM東京の「サントリー、サタデー・ウェイティングバー・AVANTI」のための収録を虎ノ門のスタジオでした。聞き手の山名和宏さんは、私の作品をよく読んでいてくれて、感心した。バーのカウンターでのおしゃべり、という設定で、最後の記念撮影は、バーカウンターのパネルの前でパチリ。7/15の夕方5時からの放送とのこと。
 収録後、いったん事務所に戻って、鈴木のカッチャンと一緒にウナギを食べてから帰阪。カッチャンの車で東京駅まで送ってもらう。

  平成18年(2006年)文月(7月)1日

 城西国際大学紀尾井町キャンパスで、アメリカ日本文学学会の第15回大会「表象文化と旅:過去・現在・未来」があり、私にも話をしてくれということで、「人間にとって旅とは何か」といういい加減な話を、オニ秘書を相手に話した。「十六夜日記」などを見ると、日本では早くから安全な旅が可能になっていたことがわかる。年寄りが京都から鎌倉まで訴訟のために一人で旅することが出来たのも驚きだが、その旅日記を女性がキチンと記録して今に残っていると言うことも驚くべき事だ。江戸時代に「東海道中膝栗毛」が大流行したということは、「お伊勢参り」という制約はあっても、多くの庶民が旅のたのしさを知っていたということが判る。「道中双六」もいまだに「人生双六」というゲームとして残っているし、ゲームをしながら、さまざまな疑似体験をして社会勉強が出来るのも面白い。こんなもの、他の国にもあるのだろうか。
 夕方は、毎日新聞のために谷甲州との対談を、ホテルニューオータニのガーデンコートでやった。『日本沈没 第二部』について、昨日、本の見本刷りが届いたばかりだが、谷君に直接会ってお礼を言うことが出来てよかった。6月13日に最後の原稿を入稿して、もう本になってしまったのだから、すごい。7/14に掲載するとのこと。