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 平成18年(2006年)皐月(5月)30日 

 朝10時、かんべちゃんがやっているラジオ大阪の「むさし・ふみこの朝はミラクル」のために、電話で収録。かんべちゃんも、大阪会場で「沈没」の試写を観ている。その感想などを述べた。6月6日に放送されるそうだ。その後は、毎日新聞が、「日本沈没」特集を組むとかで、インタビューに来た。これも試写を観ての感想と、樋口監督の小松左京フリークぶりを語った。
 阪神大震災の時に毎日新聞で「大震災'95」のルポを一年間連載した。その縁もある。
 いつもの新幹線で、帰阪。

 平成18年(2006年)さつき(5月)29日

 リメイク版「日本沈没」のプレミアム完成披露試写会が、全国5カ所で同時に開催。私は、東京の武道館会場に参加するために、いつもの新幹線で東京へ。
東京は7000人も入るので、受付がたいへんらしい。事務所からも昔の我が秘書達が駆り出されて、4人が受付に並んでいた。私は、事務所で迎えの車を待って会場へ。武道館の前に着くと、大勢の人が行列を作っていて、どこに着けてよいやらわからない。オトベちゃんがスタッフの姿を見つけて、誘導してもらう。控室で、出演者に挨拶。みんなよく頑張ってくれた。特に大地真央さんの女性大臣は、きりりとしていてよかったなぁ。会場の座席は、急な階段を下りなければならないので、しんどかった。隣の議員は、綿貫さんか。筒井さんが「日本以外全部沈没」も映画化されるので、挨拶に来てくれた。私の書いたプレスリリースの文章を気に入ってくれたらしい。
 舞台挨拶の最後に、スポットライトが当たってお辞儀をしたら、お役目は終わり。本編が始まる前に、トイレに立ち、あとは最後列の座席で見ていた。PAが腹に響いて、ションベンが近くなるようだ。廊下で煙草を吸えるのは、助かった。
 終わってからすぐに事務所に戻り、イオで二次会。SF作家クラブやいつもの連中が集まった。10時過ぎには、コマ研の3次会が流れて来たり、2次会場で偶然合流した樋口監督なども流れてきて、夜中まで大盛り上がりだった。

 平成18年(2006年)皐月(5月)19日

 小松左京全集の打ち合わせのあと、映画「日本沈没」の0号試写のために、イマジカに行く。
 樋口真嗣監督が、途中段階では全く見せてくれなかったもの。自信を持って完成させたものとして、かしこまって拝見。
 2時間15分の大作で、始まる前はトイレや煙草が持つかと心配したが、大丈夫だった。気持が途絶えることなく、いっきに見終わり、最後のエンドロールのところでちょっとトイレに立ったが、戻ってきてもまだエンドロールが流れていて、明るくなったところで、盛大なる拍手をおくることができた。監督の手をしっかりと握り、「ありがとう」と言った。本当にすばらしいできだ。
 CGと実写との合成はもちろん自然だし、CGによって今まで観ることのできなかった俯瞰の景色が多く入っている。色もキレイだ。また、田所研究室にいるでかい猫、ゴエモンが何ともいえずいい演技をして、すっかり気に入ってしまった。今度、ぜひ紹介してくれ。
 私の原作とは大分違うところもあるが、原作を知っている人間にとっては、「ニヤリ」とするところが多々あり、なかなか憎い演出である。小松左京ファンにとっては、二重三重に楽しめると、オニ秘書は興奮していた。公開まであまりしゃべることは控えるが、楽しみにしてもらって間違いない。

 平成18年(2006年)さつき(5月)18日

 集英社の伊藤ちゃんが来て、「一生に一度の月」のゲラについての確認作業。
 科学未来館のWebサイトのためのインタビュー取材。夜は、春樹事務所の担当編集者が第7回小松左京賞のことでそば焼酎「マヤンの呟き」を持ってくる。コマ研の連中と、ありがたく頂く。西安のおみやげのザーサイやら、持ち寄りのおかずで賑やかな宴会となった。

 平成18年(2006年)皐月(5月)17日

 BSフジのハイビジョン番組「メッセージ・ジャパン」の収録で、科学未来館へ行く。5年前に開館したときに、やはり毛利衛館長と会っているのだが、今度も、海外から帰国したばかりという毛利さんに久しぶりに会う。リニューアルしたところもあるが、以前見せてもらって面白かったインターネットの仕組みは、そのままあるし、地球の球形ディスプレイも、地球シミュレータセンターとつないで、さまざまな映像が映し出されるようになっているそうだ。今回の福田和也君との対談も、その球形ディスプレイの前で行なった。放送は7月。

 平成18年(2006年)さつき(5月)12日

 『小松左京マガジン』第23巻の編集長インタビューとしてセンチュリークラブで、喜味こいしさんと対談。私より4年先輩だが、真っ白いあごひげと多少痩せたことをのぞけば、頭も割舌もしっかりしている。昔の巡業一座時代のことや、漫才コンビとして荒川芳丸に弟子入りしてからのことなど、よく覚えている。私がラジオ大阪で「いとしこいしの新聞展望」の台本書きをやっていたラジオ草創期のことなど、上品でモダンなしゃべくり漫才の秘密に迫りました。どうぞお楽しみに。
 その後のフロンティア3000研究会では、ギンちゃんの高校美術部の後輩の由美子ちゃんが、自分の表現手段としている抽象画やダンスについてパフォーマンスも含めてレポートしてくれた。30歳そこそこの若い女性が情熱を傾けている世界をのぞくというのは、ちょっと興奮する。しかし、みんな「我が子」のことのように「親身に」心配し、注目して見守っていた。とくにギンちゃんは、彼女が最後にダンスパフォーマンスをしたときには、ガチガチに緊張していたのが、おかしかった。

 平成18年(2006年)皐月(5月)11日

 日経新聞の取材をホテル・ニューオータニ大阪のロビーで行い、その後、神戸一中再会の集いに出席して帰る。

 平成18年(2006年)さつき(5月)9日

 箕面市民病院整形外科に検診。場合によっては椎間板ヘルニアの手術をされるかもしれない、と思っていったのだが、診察の結果、まず理学療法によって歩行矯正をしてみて下さい、と言われホッとする。