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 平成17年(2005)かんなづき(10月)31日

 郵便貯金ホールは、1700席の巨大なホールだ。現場でのリハーサルは11時半から1時半まで、開場のギリギリまでかかった。舞台転換が大変なのだ。照明も凝っているので大変。仏教賛歌や90名の合唱隊も、今日はじめて全員そろったので、段取りが大変だ。
 私は、正直言って広島で講演することは気が重かったが、私のSF作家への道を切り開くきっかけになったのは「地には平和を」であり、原爆の日本への投下なのだから、やはりこの終戦60年という年に広島でもう一度自分の初心を思い出し気持ちをはっきりを述べるべきだ、という乙部ちゃんの説得もあり、引き受けることにした。結果としては、乙部ちゃんの司会進行で、前半は、人類の知性と創造力のすばらしさとその裏の悪魔性、そういった人間の問題を扱うには、SFしかなかったという話をし、安芸教区の瀧淵住職との対談も「慈悲」について話してもらったり、意義深いものになったと思う。
 しかし、今月は何という月なのだ。こんなにこき使いやがって! 今年はこれで終わりにしてくれ!

 平成17年(2005)神無月(10月)30日

 浄土真宗本願寺派安芸教区主催の「非戦平和を願って60年 ヒロシマから世界への発信」今年最後のイベントとして、私の「おえらびください」と「地には平和を」を朗読劇で演じてくれるということで、私も講演をしに広島へ来た。明日の本番を前に、別院でリハーサル。そこで、『茉莉花』の取材を受ける。ホテルに帰ってからは、夕食の前に共同通信の小山君が部屋へ来て、「文化往来」の記事として星新一さんについてのインタビューを受ける。30年ほど前に星さんの解説で、星さんのショートショートの面白さは、その原点に日本の「御伽草子」など、説話文学の伝統があるという指摘に食いついてきたのだ。彼はだいぶ前に古本屋で見つけた文芸雑誌に載っていたものを読んでメモしていたらしいが、よく気をつけて覚えていてくれたものだ。

 平成一七年(2005)かんなづき(10月)23日

 朝6時頃は、陽が照っていたのに、7時には雲が出て日が陰り9時には雨もふってきて風も強くなってきた。10時からのオープニングセレモニーは、屋内で行うことになった。どんどん風が強く嵐のようになって、外のテントが飛ばされるほど。大騒ぎだ。イノシシの丸焼きも取りやめ。
 鳥浜貝塚の発掘現場河口につくられた縄文ロマンパーク、縄文博物館、縄文プラザの一角にある青年の家多目的ホールが、シンポジウムの会場だ。
 鳥浜貝塚からは、丸木舟、漆塗りの木器、赤漆塗りの櫛など、珍しい出土品があり、土器も繊細な模様で厚さも薄い。博物館はマウント式で芝生におおわれた変わった造りだ。中は二階建てで一階が展示室。台風のような天気に、多くの人が博物館内に避難してくる。
 1時からこの博物館長の梅原猛さんが先に講演し、1時55分から3時まで、私と小山とのトーク。考古学と科学について、科学的な手法によって、それまで見えなかったことが見えるようになり、絶対年代が測定され、縄文時代の生活様式がいろいろと想像できる材料が増えてきたと言うこと、それは、現在の我々日本人の祖先が縄文人、氷河時代、旧石器時代にまで繋がっていることを感じさせ、当時の人々の生活ぶりに興味がわいてくる、というような話をした。おわったあと、帰りがけのおばさん達が、「漫才の台本を書いていただけに、面白い話だった」といっていたそうで、小山は大いに満足していた。これから、石毛直道も入れて、「三バカトリオ・知的漫才」をやろうか、などとも言い出す始末。
 車で千里中央まで帰り、千里阪急ホテルで一杯飲みながら打上をした。

 平成17年(2005)神無月(10月)22日

 午後1時過ぎ、車で福井県若狭町へ向かう。国民文化祭で若狭町では縄文フェスティバルをやり、23日のシンポジウムに小山修三と対談するためだ。
 名神から湖西道路を行き、27号を行って、約2時間半から3時間弱。三方五湖の水月湖のほとり、水月花という宿に4時頃着いた。雨と風が強く、前夜祭の火入れ式は取りやめになってしまった。日本海側は、なかなか晴れることが少ないそうだが、残念だ。4時半頃に落ち合うことになっていた小山修三が、車で来る途中に交叉点でぶつけられ、一時間ほど遅れるという連絡があった。怪我はしていないが念のため病院で検査しているという。小浜市の食文化館に立ち寄ったあとすぐだったので、食文化館から車を出してもらい、こちらに来ることが出来たという。乗っていた車はひしゃげてしまったそうだ。大事に至らず、何より。
 オーストラリア人のアボリジン研究者、キム・アッカーマンは、石器作りの名人とのこと。上野の科学博物館から招聘されて日本に来たのだが、小山が関西では面倒を見ているとかで同行してきた。
食後、部屋で彼と話し、オーストラリアの未来の国家像について質問したが、唯一の一大陸一国家の国は、未来に向けて移民を入れて活力を得るとか、大きな変革を求めるようなことは欲していないようであった。観光客は受け入れるが、工業を盛んにする意欲はなく、日本に比べて資源の豊かな国なのに「貧しい国」であるという。

 平成17年(2005)かんなづき(10月)11日

 大阪のワッハ上方で、昼・夜二興行の「大経師昔暦」の前座で、今日は、旧暦研究家の松村賢治さんとの対談。やはり、乙部ちゃんが着物を着て進行係をやってくれた。
 ここは、親子室があるので、そこから芝居を見物した。昼の部には福田紀一や女房の友達が来てくれ、夜の部は、フロンティア3000研究会のメンバーが来てくれた。終わったあとは、近くのビヤホール、ニューミュンヘンで打上をした。しかし、一人で13役を演じた城谷小夜子ちゃんの演技はすごかった。みんな感心したようだ。おさん・茂平衛の話が、こんな話だったとは、知らなかった。泣けたといっている女性も多かった。でも、私はさすがに疲れたぞ。

 平成17年(2005)神無月(10月)10日

 京都文化芸術会館で、一人芝居「大経師昔暦」公演の前に「近松門左衛門について」話をさせられた。
 久しぶりの京都で、昔なじみのお茶屋のみよちゃんや、富菊さん、豆香ちゃんも来てくれ、懐かしかった。
劇場の楽屋で、煙草を吸いながら、みんなが準備しているのを見ていた。コマ研の澤田君が搬入、搬出など力仕事を手伝い、結髪のおばさんが髪を結い、着物を着付けていく。鬼秘書も彼女の手に掛かって、着物を着て大変身。私の話の進行役をやってくれた。中西君も来てくれ、終わったあと一緒に珈琲を飲みながら、祇園の思い出話に付き合ってくれた。
 コマ研の中野君が大阪まで一緒についてきてくれ、夜のバーを付き合ってくれた。