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 平成17年(2005)ながつき(9月)30日

 第6回小松左京賞の授賞式とパーティがキャピタル東急ホテル、真珠の間で行われた。
 今回は、昨年よりもさらに年長の63歳の伊藤致雄さんが受賞。第一回受賞者の平谷美樹さんが、私の塑像を作ってきてくれた。ブロンズ仕上げなのだが、粘土で作ったのだそうで軽い。映画「日本沈没」がリメイクされるので、以前の映画に「原稿が出来ました」といってちょい役で登場したときの私のイメージで作ってくれたのだそうだ。
 上田早夕里さんのお腹は相当大きくなっていた。来年1月出産予定とのこと。機本君が自分のお腹と見比べていたのは、おかしかった。 


 平成17年(2005)ながつき(9月)23日

 久しぶりに、ロイヤルホテルのロビーで待ち合わせ、上階から朝日放送の新社屋建設予定地を見下ろす。
 2008年4月にオープンするときに、何かイベントを考えてほしいとのこと。現場を見て、いろいろとアイデアを出し合う。
 その後、心斎橋のそごうが新装開店して、そごう劇場が出来、その落語のこけら落としで米朝さんが出るというので、挨拶に行く。サンケイホールの最後の米朝一門会以来だ。あの時はバタバタしていて、ゆっくり話もできなかったから、今回は、楽屋で久しぶりに話した。お互い顔を見れば、「年とって、もうあかん」という愚痴になる。しかし、べぇやんは、着物を着るとさすがに背筋もシャンとなるのは偉いもんだ。

 平成17年(2005)長月(9月)16日

 NHKの「あの日 昭和20年の記憶」収録。
 終戦後の思い出は色々あるが、今回は、私にとってはあまり思い出したくないことについて語ってほしいといわれ、ちょっとしんどかった。なかなかディレクターの思うとおりに話せるものではない。

 平成17年(2005)ながつき(9月)15日

 12月から小学館の『ビッグコミック・スピリッツ』で、「日本沈没」の漫画を連載してくれることになった。担当編集者と漫画家さんが来て、顔合わせと打ち合わせ。
 1973年9月から一年間『週刊チャンピオン』にさいとうたかをさんが連載してくれたのが最初で、それが未だによく売れているようだが、21世紀版は、さてどのようなキャラクターなるのか、楽しみだ。

 平成17年長月(9月)9日

 フロンティア3000研究会で、今回は、元関西テレビのディレクターで「ハイ土曜日です」や「黄河大紀行」など、一緒に仕事をしてきた(古)吟ちゃんの話。
河内弁でしゃべくる話し方は荒っぽいが、話の内容は、会田雄次先生の思い出や小野田少尉の極秘取材テープの話など、細かいことまで良く覚えていて面白かった。
小野田少尉がルパング島から上官の命令がなければ出てこないと言い張ったのは、父親に対する頑迷な突っ張りだという見解は、その家族関係にまで遡って調べた結果と家族や周辺からの取材にもとづいており、なかなか説得力のあるものだった。

 平成17年ながつき(9月)6日

 1時半から、『小松左京マガジン』第21巻の編集長インタビューとして、根本順吉さんのご自宅へ行く。
 田園調布駅の側、自由通りを行ったところ。3年前に糖尿病で右脚を膝から下切断しているので、自宅を出ることが出来ないのだそうだ。
 根本さんとは、1973年に「日本沈没」を出したあと、日本が沈没するほどの大異変が起こったら、地球の気候にも大きな影響が起きるだろうと、気象についていろいろと教えていただいた。実際に、1973年は浅間山の噴火や地震、年末の石油危機などが起こったが、それは、地球の気象変化と密接に関係していることが解った。竹内均さんや西丸震哉さん、飯田隼人さん、立川昭二さんとのトークと原稿で『異常気象』(1974年旭屋出版)という本にまとめたが、いままた、このところの「異常気象」について、根本さんにお聞きしたいと思ったのだ。

 夜は、第6回小松左京賞受賞者の伊藤致雄さんにイオに来ていただき、受賞者インタビュー。
 詳しくは『小松左京マガジン』第20巻に掲載するが、以前、教育総研が童話を募集したときにも応募していたのだそうだ。審査員には、私の他に畑正憲、角野栄子さん、里中満智子さんがいた。作品は、今回の作品にも関連していて、ヤタ烏が出てくる話だった。


 平成17年長月(9月)5日

 第6回の小松左京賞、最終選考会のために東京の山の上ホテルへ。
 毎年8月は、最終選考のために長い原稿を読まなければならず、その度に目の衰えを実感する時期である。
佳月柾也さんの「糸巻き群想」が388枚、左畑衛海さんの「真夏の人喰い」が616枚、伊藤致雄さんの「ルーツ」が405枚。
佳月さんは34歳、左畑さんは30歳で、二人とも大阪在住。左畑さんの作品は、読み通すのに非常に苦労した。
結局、63歳の伊藤さんの「ルーツ」を第6回小松左京賞に選んだ。題名は変えた方がいいだろう。