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 平成15年(2003)長月(9がつ)29日

 夢路いとしさんが先週の25日になくなっていた事が報じられた。78歳。わたしは、ラジオ大阪の「いとしこいしの新聞展望」というニュース漫才の台本書きをしていたので、3年間は、毎週3回お会いしていた。昭和34年10月から37年6月だ。番組は毎朝7時50分から8時、月ー金であったが、すでに売れっ子になっていたいと・こいさんは、週3日しか来られなかったので、一日に2回分の番組を収録していた。
 400字詰め原稿一枚が一分の見当で台本を書く。途中から、若手の漫才コンビが交替で入ったが、彼らは早口なので、原稿枚数が増え、コピーのない時代なので、カーボン用紙を間に入れて一度に3枚ずつ書いていると、腱鞘炎になるくらいだった。いと・こいさんは、若手に比べても、ずっとモダンで、シュールな題材でも苦もなくこなして演じてくれ、助かった。浄瑠璃や芝居を織り込んだ話など、鳴り物の指定もあり、私はサブ・ディレクターのようなこともした。東京オリンピックの開催費用を捻出するために、東京都がトト・カルチョをやろうか、という議論があったときには、さっそく、浄瑠璃の「傾城阿波の鳴門」の「巡礼おつる」をもじった「巡礼おかる」という話を作った。「かか様の名は〜、東京オリンピック」「とと様の名は〜、東龍太郎と申します〜」「かるは、とと様にちょっとあいたい〜」「これがほんとの、トト・カルチョ」というオチだが、ちゃんと「巡礼に、御報謝〜」と芝居語りでやってくれ、さすがだと思った。
 いと・こいさんの漫才は、伝統的な芸を保ちながら、都会的な上品さもあり、私は「郊外電車型の笑い」だとおもっている。大衆文化の近代化に、落語の分野では米朝師匠が大きな貢献をしているが、漫才では、いとし・こいしさんの存在が大きいと思っている。惜しい人を亡くした。